2016年6月22日水曜日

辺見庸「もの食う人びと」から創価学会・公明党の戦争と平和まで


I )他者を愛するなら

辺見庸さんの本は「もの食う人びと」(角川文庫)に大変面白いことが書いてあった。一か所ひどく驚いたのは私の持論にも似た個所があって、それは完全に同じだとは思えませんが、一応の発言であったのです。それは修道院で修道士らと食事をした後での話に出て来る個所なのです。「聖パンと拳銃と」という章にある。「他者を愛するというなら……」(164頁)、(…)「まず、殺すなとなぜ唱えて歩かないのですか」(164頁)それに、答えた修道士のサバは、次のように答えている。「宗教がいま、戦争をやめさせる力になっていないことに私個人は反省的になっています」(165頁)、つづけて、「宗教は戦争の原因ではありません。極端な民族主義者に悪用されているのです。憎悪をこしらえるために」と修道士からの反応がなされたが、その後の話しが辺見によって要約された形で書かれている。つまり、「カトリックのいう「煉獄」(死者が天国に入る前に火によって罪が浄化される場所)などない。カトリックは神からの罪を恐れるが、正教は神が遠ざかるのを恐れる。楽園もない。まず自己を救え、それが他者を救うことになる……」(166頁)。この話は現代の「キリスト教」世界のことだけでなく、「創価学会・公明党」の立場を表した主張だということです。ようするに認識と方法論の改竄からくる誤りなのです。


Ⅱ)高校生に金を贈与する池田先生、信仰と金の思い出

最近日本の方で参議院選挙運動なのでしょうか、公明党の家庭訪問があったということをFB友から聞いていて、訪ねて来た「公明党」支援の方が、『「ナツオ」さんもとても良い方だし』と言われているという。ナツオ君が良い方だということには、私は特に反対はしない。しかし彼からは特に素晴らしい話しを聞いたという記憶もないのである。でもお金を貰っている。一度は高校生の時に信濃町の創価学会本部に、茨城の高校生の創価学会員が東京での会合の後に立ち寄った時に、池田先生からだと言って当時部長であったナツオ君から3000円を交通費として何かの足しにするように言われ受け取った。勿論一般の高校生会員は、この金は受け取っていない。また、創価学会本部の信濃町に博文?とか言ったと思うが学会関係書籍を扱う本屋と同じ建物にレストランがあった。そこの食券というのを高校生幹部は貰って食べていた思い出がある。

二度目で最後だが、私が三十数年前に羽田からフランスに立つ時に山田某?とかいう友人を連れて送りに飛行場にやってきて、餞別だと10000円札を渡された。曰く、そうだろう、遊びに行くのだろう。と言われ私は内心気分を悪くしたものだ。その時の話だが、これはこれまで、誰にも話さなかったことだがここに書いておくことは、日本の人に何らかの理解と参考になるかも知れないと思う。それは彼の女性観である。ナツオ君は私に女性には三つあるのだという。結婚し子供を育てる女性。遊びの女性。それと秘書的な有能な女性。この話を聞いて私は大変に驚いたのである。池田の指導であったのかどうかはわからないが、なんとなくそんな気もするのだ。ナツオ君の周辺にはこの三つの女性が今いるのだろうか。日本にいる人は山口那津男公明党代表に問い糾してみる価値はあるだろう。


Ⅲ)人を殺すなと訴えない創価学会

前掲の辺見庸さんの本「もの食う人びと」(角川文庫)の話しに戻るが、「まず、殺すなとなぜ唱えて歩かないのですか」(164頁)の辺見さんの修道士への言葉は、修道士だけにではなくて、是非とも「公明党」支持者の創価学会員にも突きつけてみたいものです。「何故、まず第一に、創価学会は人を殺すなと訴えないのか?何故、創価学会は戦争を進める「自民党」を「公明党」が支持することを許すのか?」と。「創価学会」では人を殺してはいけないということを厳しく会員に教えていないはずです。戦争法案を許せばそれは人を殺すことを認めていることになるから、言えないのです。教義的に無理で幹部も宗教者として人を殺すことを認めていて会員にも教えられないのです。それで創価学会・公明党は戦争は恐ろしいものであって、世界の平和が無かったのならば、一国や個人の平和は存在しない。先ずは「四海静謐」という「世界の平和」を実現する運動が必要なのだという論を池田大作という人が念仏・法然の思想に偏執して立てたのです。

その創価学会・公明党の世界平和の原理の論拠となる出所が日蓮大聖人の「立正安国論」にあるのです。しかしそれは、悪魔の蝦蟇法師法然に影響された「客人」側の主張としてあるのです。勿論初めの誤りは創価学会の池田大作氏の誤読による解説だったのです。それが今の創価学会・公明党の平和論の立論の仕方そのものになってしまったのです。

引用すると、「但し災難の起こりは選択(せんちゃく)に因るの由、盛んに其の詞(ことば)を増し、弥(いよいよ)其の旨(むね)を談ず。所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽(ねが)ふ所、土民の思ふ所なり。夫(そ)れ国は法に依って昌(さか)え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先づ国家を祈りて須らく仏法を立つべし。」(「日蓮大聖人御書」平成校定258頁10行~同12行 / 平成新編244頁3行目~同6行目 / 全集26頁15行~同18行)

「宗教がいま、戦争をやめさせる力になっていないことに私個人は反省的になっています」(辺見庸著「もの食う人びと」(角川文庫)165頁)、この言葉は修道士の個人的告白ですが、創価学会員は安倍晋三首相の「戦争法案」を支持したわけですから、口がどんなに曲がってでもこの修道士のような真摯な言葉は出ないでしょう。創価学会・公明党はキリスト教の僧侶以下になって、戦争を進める安倍政権を支持しているのです。

それでは彼らキリスト教の僧侶は何というかというと、次の修道士サバの主張のようになるわけです。

「宗教は戦争の原因ではありません。極端な民族主義者に悪用されているのです。憎悪をこしらえるために」と、これは今の創価学会でも同じで。念仏・法然の思想に影響され客人の思想を継承するもの達は、絶対に宗教が戦争の原因だとはいわないのです。これを言ったのが日蓮大聖人なのです。日蓮大聖人は「立正安国論」の中で指摘された戦乱や飢饉や疫病などの三災七難、天変地夭・飢饉疫厲が競い起こって来るのは誤れる宗教を退治し治罰しないからだと言われたのでした。念仏・法然の思想の立場はそうではなくて池田大作が言ったように、今や戦争が起きたのならば家の御本尊もお寺も焼けてしまって信仰などやっていられなくなる。どの宗教が良くてどの宗教が悪いなどと論じている時ではないのである。だから先ずは周囲の平和が必要で世界平和構築の行脚を自分は行っているのだと言ったわけです。これが創価学会の世界平和・文化路線だったのです。原理は日蓮大聖人の「立正安国論」の中に求めた。しかしそれは法然流の世界平和論であったのです。「御書」を顚倒解義(てんどうげぎ)して読んだから池田大作は誤ったのです。

宗教者は戦争の原因が宗教にあるなどとは勿論、池田も法然も言いたくないし言わないのです。宗教が戦争の原因だと明言するのは、日蓮正宗であり日蓮大聖人だけなのです。そこに日蓮仏法の名だけ使っている創価学会の欺瞞が隠されている。

それではどういうふうに言うかと言うと、次のように言うのです。「カトリックは神からの罪を恐れるが、正教は神が遠ざかるのを恐れる。楽園もない。まず自己を救え、それが他者を救うことになる……」これはカトリック教会側の誤魔化しのやり方ですが、宗教の誤りを糾したくないのは創価と同じなのです。


Ⅳ)牧口常三郎・戸田城聖の「軍国主義」容認思想

これを、創価学会ならば何と言うかといえば、(創価学会)会長の牧田城三郎(牧口常三郎)は、「大聖人の御意志をそのまま実行しようというのに、なんの障りがありましょう!万一、日蓮正宗が潰れたとしても、仏法の力によって国家が立ち上がれば、大聖人はお喜びになりましょう!仏法は観念の遊戯ではない!国を救い、人を救うものです!救わなければならない時に、腕を拱いていて救われないのは、仏意に背くものではないか!」(「人間革命」昭和32年7月3日発行 妙悟空著 精文館書店」357頁。なお、妙悟空は戸田城聖のペンネームである。)とある。

これに関し、創価学会第二代会長の戸田城聖は、同上掲書「人間革命」の巻末に(創価学会会長 戸田城聖)と実名の署名を入れて「人間革命の真髄(あとがき)」で書いている。「牧田先生は決然と国家諌暁を仰せ出された。『一宗の安泰を願うか、それとも国家の安泰を願うか、一宗一派の攻防は問題じゃない、私の心配するのは国家の破壊である』との牧田先生の精神こそ、宗祖日蓮大聖人の大折伏精神に他ならないと確信する。」(同上掲書、巻末あとがき2頁)

ここに創価学会の体質が、日本軍国主義的な戦争加担を否定せずに、むしろその戦争の勝利に宗教を役立てようとする危険な思想があったのであり、これが現在の「創価学会・公明党」=「自民党」という戦争支援を支持する思想に繋がっているということなのである。問題は、日蓮大聖人の仏法という宗教を使うことで、戦争を勝利に導こうとする国家主義的思考が牧口常三郎や戸田城聖にあったということであり、彼等の理解は、日蓮大聖人の「立正安国論」での国家諌暁とは全然別の理解であったということだ。日蓮大聖人の国家諌暁とは当時の権力者執権北条時頼の影響されていた特に念仏の誤れる信仰を辞めさせ日蓮大聖人の正しい仏法に帰依させることになった。日蓮大聖人は法然上人を蝦蟇法師ともいっている。池田先生はその蝦蟇法師の流れを汲んでしまったということだ。

日蓮大聖人と創価学会との相違は、同上掲書「人間革命」の中で、戸田城聖が次のように書いていることからも解るのである。

少し長いが引用すると、「明治時代にあった日清戦争や、日露戦争では、日本の背骨に一本の筋が貫いていたように思うが、日支事変もそうだったが、大東亜戦争でも、日本の国内はバラバラになつている。その根源は、どこにあるかといえば、宗教界にある。宗教界が混乱に混乱を重ねていては、人に真の和がなく、真の和がなくては、いくら総力戦を叫んでも力は涌いてこない。牧田先生が国家諌暁を思い立たれた理由も、そこにある!諸君、宗教の力でこそ、この戦争に打ち勝てる。国も救い、民衆も救える……という大信念をもって、一大折伏戦に入ろうではないか!日本の癌になる対支問題の解決には、われわれが支那大陸の地下工作まで乗り出そうではないか!勿論、巌の全財産は、この運動に提供する!」(386-387頁)。ここでの「巌」(がん)さんというのはフランスのモンテクリストフの小説「巌窟王」からとった戸田城聖の異名である。


Ⅴ)池田先生と法然蝦蟇法師との平和論の相似性

ここでは創価学会の「国家主義的な主張」がわかるのであるが、同時に牧口や戸田のいう「国家諌暁」の意味は、日蓮大聖人が「立正安国論」で言われた「国家諌暁」とは意味が全く異なっているのである。その誤りが良く出ていて理解されるのは、第四代創価学会会長の池田大作の主張である。

つまり、「戦争があったのなら御本尊も寺院も焼けてしまい、安心して信心などやってられない。だから、まず「四海静謐」という周囲の平和が必要なのだ。そこから創価学会の世界平和運動が出て来たとして、これが日蓮大聖人の書かれて「立正安国論」の主張だとして宣言したわけである。しかしながら、日蓮大聖人は「立正安国論」でそのような主張はしてなく、先ず「四海静謐」を収めんものかと主張したのは法然の弟子で、「立正安国論」における対談形式での主人に対する客人の思想であったのである。これに対し日蓮大聖人は、宗教の浅深高低・正邪を諦めることのほうが先決問題であり、真実の「国家安穏」を実現する近道であるとされた。世界平和を叫ぶのではなくて、宗教の誤りこそ先ずもって糾弾されるべきものなのだと、反駁されたのである。

それは宗教の誤りが創価学会のように戦争を支持し推進していくことを見抜かれていたからでもある。池田は自分の「立正安国論」解釈の誤りを見破られることを恐れて、次のようにも話している。日蓮大聖人の「立正安国論」という御書は凄いのだが、漢文で書かれているので難しい。それを卑近な例も摂り入れて易しく噛み砕いて解説した池田のスピーチ集を読んで理解してから難しい御書に向かえば簡単にわかると立てて、日蓮大聖人の御書からの理解を捨てさせたのであった。

このやり方というのは法然の「捨閉閣抛」と大変に似ているのである。もっとも「立正安国論」での客人の立場が法然の思想の持主だから当然と言えば当然のことではある。法然に影響された客人の思想に池田が影響されたとも見ることができるが、これは牧口常三郎から戸田城聖、そして池田大作へと連綿と続く創価学会の戦争に対する国家主義的な考え方なのである。それを日蓮大聖人は「立正安国論」の中ですでに、先取りして法然の主張として批判したのであった。