2015年7月7日火曜日

戸田城聖の「獄中の悟り」は「法華経」からではなく「無量義経」から

相当に昔だが丹波哲郎という男優が演じた創価学会の戸田城聖を主人公にした「人間革命」という映画があった。この映画の山は戸田城聖の獄中での悟りである。戸田は経典を何日もかけて読むが「法華経」は難しく理解できないとしている。戸田は「法華経」の初門が「無量義経」だという誤った理解から「無量義経」を読みはじめ、その三十四の非文字のところで不思議な体験をした。これを戸田城聖が「法華経」を読みきって悟ったという有名な、誤れる戸田の「獄中の悟り」となったのである。


「仏とは生命なのだ」という戸田城聖の悟達を、学会教学の生命論の原点としたのであった。そんなに大事な戸田の「獄中の悟り」は法華経からのものだと思っている学会員も多いだろう。「法華経」こそが「三説超過」の「超八」の最高、最第一の経典である。多くの誤れる経典はこの「法華経」を第二位、第三位と下して、自愛の他の経典を最第一の経典であると立論してくる。


戸田の場合にはこれをどうやったかというと、「無量義経」は「法華経」の序論なのであって、一つの論文の序論・本論・結論の関係であって、「無量義経」も「法華経」も同じなのだと並べてみせて、斉等ならしめたのであった。これは仏教を知らない人を丸める手口であり誤りである。「法華経」は已・今・当(いこんとう)の「三説超過」の経であることを忘れているからだ。已とは法華経以前の四十余年の諸経をさす。今とは「無量義経」。当とは「涅槃経」をさす。「法華経」はそこには入らないのである。戸田城聖の誤った邪儀作りは、「無量義経」と「法華経」を一経として並べ同じたところにある。それを経典改竄によって、自分の獄中での「仏とは生命なのだ」という戸田の「無量義経」読誦での悟りを、「法華経」からの悟りであるかのように欺き誤魔化したのである。














創価学会の経典改竄の理由は?

何故このような経典の改竄を創価学会はしなければならなかったのかということだが、一つにはそれは創価学会の戸田城聖が「無量義経」を牢獄で読んで、「仏の生命を悟った」という『獄中の悟り』を正当化するためであったと考えられる。 戸田の読んで悟った悟りだが、その依教(えきょう)となった「無量義経徳行品第一」の経文上に、「仏」という文字が無かったので、どうしてもそこにこの文字が欲しくて書き換えをしたのだと考えられる。


経典改竄をすれば邪儀である

創価学会第二代会長の戸田城聖は「戸田城聖先生 質問集」(昭和38年)の中で、創価学会の生命論の出どころとなった「無量義経徳行品第一」の経典を引用している。その経典の箇所には、「仏」という文字は無いのにもかかわらず、戸田は勝手に「無量義経」の経典に「仏」の文字が有るかのように誤魔化してこれを添加して、「仏とは生命なり」という創価学会の生命論の基礎を立てた。その誤れる創価学会の生命論の基礎とは、「無量義経」の経典にはない「仏」の文字を添加して書き込んだ。その上で「戸田の獄中の悟り」とは「法華経」からの悟りだと誤魔化したのである。


「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年 創価学会発行)では、「無量義経」に無い筈の「仏」の文字が挿入。


この無量義経徳行品第一の経典にある「其の身は」の箇所を「仏とは」にすり替えている。この創価学会のすり替えは「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日 創価学会 発行、8頁3行目)に出ていて、明らかに経典改竄を犯している。


「仏とは何であろうか、いるのか、いないのか」と考え、仏教書を読んだがわからず、無量義経につきあたりました。それには「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」(無量義経徳行品第一)とあり真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました。このようにして経典には無いはずの文字、つまり、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」(無量義経徳行品第一)と経典にあるとした。本経に「其の身」とあるのを削って、創価学会は「仏」に摩り替えて出版した。


戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日 創価学会 発行、8頁3行目)には、
「無量義経」に無い筈の「仏」の文字が挿入。




創価学会のこの経典改竄は、「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行昭和40年12月10日 9頁後ろから3行目)の場合でも、同様に誤りを正さずに誤魔化して、無量義経徳行品第一に無い筈の「仏とは」として「無量義経」の経典を改竄している。


本来の、「無量義経徳行品第一」の経典では、どうなっているのか?



『新編妙法蓮華経并開結』(平成10年4月28日 大石寺発行 )の「無量義経徳行品第一」のその箇所には、「其身非有亦非無・・・・・・」(同7頁の最後の行~8頁)と正しく「其の身は」と書かれている。 同頁の下段にある現代書き下し文でも、「其の身は有に非ず亦無に非ず・・・・・・」と、「其の身は」となっている。創価学会の書き換えたような「仏」の文字は無いのである。


次に、戸田城聖氏が「妙悟空」というペンネームで書いた「人間革命」という本があって、ここでは以下のようになっている。論理はいたって簡単な手品のような入れ替え作業にしか過ぎない誤魔化しであった。つまり、すでに指摘したように戸田の場合にはこれをどうやったかというと、「無量義経」は「法華経」の序論なのであって、一つの論文などの序論・本論・結論の関係であって、「無量義経」も「法華経」もその一つの論文の前後に過ぎないのであって同じなのだと並べてみせて、等しいと斉等ならしめたのであった。

これは仏教を知らない人を丸める手口であり、手品の如き手法で誤りである。「法華経」は、釈尊の生涯での説法における、已・今・当(いこんとう)の「三説超過」の経であることを忘れているからだ。已とは法華経以前に釈尊が説いた四十余年間の諸経をさす。今とは「無量義経」を指す。当とはこれから説く「涅槃経」をさす。そうするとここで、「法華経」の位置だが、「法華経」はそれらの三説には入らないのである。「法華経」は三説超過の法とか、「超八」というのはそのことを表しているのである。しかし、戸田城聖の誤った邪儀作りの手口は、「無量義経」と「法華経」を一経として並べ同じたて見せたところにある。

それを経典改竄によって、自分の獄中での「仏とは生命なのだ」という戸田の「無量義経」読誦での悟りでしかないものを、「法華経」を読んだ悟りであるかのように創価学会員や世間を欺き誤魔化したのである。

丹波哲郎主演の「人間革命」の映画というのも、この誤れる戸田の獄中の悟りによっているわけだ。















重要なことは、創価学会の原点である「生命論」はこの戸田城聖の獄中の経典拝読にあり、戸田が読んだのは「無量義経」であったということである。『真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました』とある。「法華経」ではなかったのである。

日蓮大聖人の御書には、師の誤りを隠す弟子がいるとある。日蓮大聖人は諸御書でこの仏法の正義を誤魔化すことについて、次のように言われている。各自「御書」の本文を参照してほしい。

「弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せしかば」「末の代はいよいよ・あをぐなり、」(種種御振舞御書)

「弟子ども隠せしかば」(種種御振舞御書)

「謗法の失を恣(ほしい)ままに覆(おお)いかくすなり」(第二捨父逃逝の事 御義上)

「深くその根源を隠し て候へば」(本尊問答抄)

「教を匿(かく)さざれ」(聖愚問答抄)

「仏法のあぢわいをたがうる人は」(妙一女御返事)

「私の言をそうるゆ へに」(衆生心身御書)

「私の筆をそへ仏説のよしを称す。」(破良寛等御書)