2013年8月4日日曜日

岩田正美著「社会的排除」を読む なぜ権力を語らないのか

「社会的排除」岩田正美著(有斐閣 2008年)
  「社会的排除」岩田正美著(有斐閣 2008年)を読む。しかしこの「社会的排除」という用語はフランスではあまり聞きなれないように私には思える。フランス語では何と言っているのだろうか?本書16頁では2005年10月のパリ北郊外都市クリシー・スー・ボワでのブゥナ・トラオレ君(15歳)とジィエド・ベナ君(17歳)の2人が感電死したことは書いている。それが青年たちの郊外暴動の発火点であったとしてこの青年たちが労働市場や労働組合などの集団からも排除された社会的排除の典型だとしている。しかしこの郊外の移民青年たちを排除したのはサルコジ氏であったことはきちんと書かれてないのはどうしてなのか不思議である。
 
 公務員に対する移民の二世の再犯者は国籍を剥奪すると宣言し、一般のフランス人子弟と差別を設けたサルコジ前大統領のグルノーブル宣言などを鑑みると権力が「社会的排除」の主体者であることが明快だ。これはクリシー・スー・ボワ事件から一環したサルコジ氏の移民観なのである。

 欧州審議会の人権委員会のアシュトン委員が人権無視の強行的なロマ人排斥を行なったサルコジ氏に対して人権違反のフランスの法律を修正するように通達したことなどは誰も忘れてしまっているのだろうか。

 移民に対する排除はフランス人の中にそれを支持する外国人嫌いの保守層が存在し、彼らの支持票を集める材料として移民迫害が行なわれているように思えるのである。そういう視覚からクリシー・スー・ボワでの事件をとりあげ「社会的排除」をいうのならばよく理解がいくのだが、著者の観点はそうではないようである。