2011年2月15日火曜日

【コラム】レティシア、フロランス事件で仏大統領 解決無く火に油のスキャンダル追求 人権の重さに認識薄弱


フランスの若い女性の誘拐事件や殺人事件はとかく話題になりやすい。レティシア(※1)さんの事件の後は、今度はメキシコに投獄されていて2月11日に禁固刑60年の判決を受けたフランス人女性のフロランス・カッセさんも同様に話題になってメディアを騒がせている。この傾向はなにもフランスだけではないようだが、サルコジ大統領はどうも毎回こういうスキャンダル事件には顔を出したがるのはどうしてなのか?なんとか救助したいという意識からなのだろう。また憐憫の情もあるのだろう。

14日昼のフランス国営放送・テレビA2に出演したレティシアさんの母親はサルコジ大統領と会見してきたばかりで以下のように話している。「私たちはもう5年も要求してきたのに」「本当の解決をまっているのです」「もうがっかりしているのです。弁護士がやっていて、我々は直接は関与してない」などと話した。

テレビの司会者はフランスの「メキシコ年」を中止すべきかとの質問には、母親は「微妙だが、フロランスのためには必要なことだ・・・」と口ごもった。

それで、ふと気になったのがマリでアルカーイダ(AQMI)の捕虜になっている原子力産業のアレバのフランス人社員の人質解放問題だ。

フランスの「メキシコ年」などの文化・経済交流がこういう人間の命の駆け引きに使われて中止するのしないのと政治の道具にされているようで気の毒なかぎりである。まったく不思議なことなのである。

メキシコへの経済援助や投資などとは無関係に「メキシコの年」とも無関係に筋が通るならフロランスさんの母親が言ったように5年前に釈放ができていたはずである。フランスの政治家には金銭のやり取りと人権とはバランス・シートされないという思想が欠如してしまったようだ。

つまり人質解放などの身代金がどんなに高くても人の命には換えられないという思想の欠如のことである。人の命を金銭と天秤に掛けているから、かってこんなに金をだしたのになぜ?といった過去の援助や投資の話がでてくるのである。

過去にメキシコに経済援助をしたからそれでメキシコでのフロランス裁判を無罪に有利にできると考えることこそがどこか勘違いがあるようでそれが心配なわけだ。

こういう感覚で考えると、人質になった人たちの解放なども何かに利用されることによってしか釈放されないのではないか?つまり金銭的な政治的な天秤で計られて利益があるとされたときのみ釈放されるということで、それまでは留保され得るという怖い考えである。これが人命の計量化という思想で実はこれが行われているように思えてならない。

アレバの社員の解放とかフロランス・カッセの釈放なども、この考えで行くと大統領選挙の直前でしか解放の天秤が傾かないのではと危惧されるのだ。