現代世界の差別構造(栗原彬 編集 弘文堂 平成9年 講座 差別の社会学 第3巻)所収の「フランスの人種差別(ラシズム)」 杉山光信論文での社会学者ヴィエヴィオルカの聞き書きした婦人たちとは極右派の国民戦線(FN)のペンの支持者たちのことではなかったかと思えるのだ。 |
だから「マグレブ諸国出身の外国人労働者の存在がフランスで社会問題」になったと表現しているのである。今のフランスでならば、してはならないラシズム的な表現なのである。それは学問の研究においてなら許されることとは思われない。そういう人種差別問題への感性が不足した文章である。もっとも杉山氏は「人種にまでその根がさかのぼると信じ込まれている習俗の違いと文化的差異とは、じつはマグレブ系の人々が貧困で、よく組織されていなくて、十分な制度的な枠組みを欠いている」…これが、「本当の理由をもつのである」(197頁)と独自の回答を用意している。
しかし、これを社会問題とするのは誰なのか。一般的なフランス社会全体がそうするのであればフランス人全体が人種差別主義者となるだろう。そういうことはあり得ない。「マグレブ諸国出身の外国人労働者の存在がフランスで社会問題」というのはおかしいのである。例えば極右派の国民戦線(FN)のル・ペンを支持する人々がそう主張したとしても、それがフランス人の総てではないからだ。フランスでは彼らの存在をさして社会問題だとは絶対に言わないのである。人種差別の言動になるからだ。
杉山氏はこのマグレブ移民の住む地区をさして、「新しいタイプのスラム地区」「問題をはらむ郊外」と言っているようだが、そこにはフランス人は全然住んでいないのだろうか?栗原氏は移民地区で起こった「砂糖菓子やスニーカーをいっぱい抱えた幼い子供の姿」がメディアの映像で流されて、これを見たフランスの人びとはなにを思うのであろうか」と書いているわけで、この映像は他人事なのである。つまりフランス人自身の問題ではなく移民のことなのだとした杉山氏の視点であるわけだ。はたしてこれは現代のフランスを見るときの正しい見方なのであろうかと私は疑問に思う。
勿論のこと杉山氏が指摘する、「スカーフ事件やハラール肉問題などを通じマグレブ系の外国人労働者の存在が可視化されることが多くなる」というのを私は否定しようとは思わない。しかし誰がこの可視化を行なっているのかは言うことが必要だと思える。フランス人全員がそうしているわけではないだろう。
つまり杉山氏は社会学者ヴィエヴィオルカの聞き書きをもとにして、フランス人がマグレブ人を見ている意見をここで引用して提示している。だからこの社会学者が引用した人々の政治的立場を明かす必要があったと思える。これはフランス人全体の意見ではないからだ。
その引用文は、「外国人労働者の子供たちは放ったらかしにされてまるで獣とおなじなのよ」。「かれらはバスに座ると空席に足をのせて物を汚す。」「あの子たちは今は地下室で遊んでいるけれど、もう数年たったらサッカー・ボールでシュートするでしょう。もっと後では地下室で抱き合うにきまっているわ」。彼らは恐怖の種をまく。逆らわないにこしたことはない。「みんな仕返しをこわがっているのです、自動車に傷をつけられるとかの」。彼らがいると「フランスはごみ箱です。私たちはごみをあつめさせられているのよ」。…なのだと杉山氏は引用しているが、問題はこの発言をした人たちはどういう筋の人たちなのかということである。それを杉山氏はここで明示すべきであった。
フランス人が総てこうだとはとても私には思えないからだ。しかし杉山氏は「この言葉はミュルウーズで集められたものだけれど、話の雰囲気や内容はフランスのどこでも聞かれるものなのだ」(189頁)「大都市の近郊の団地やさびれた工業地帯に外国人労働者たちの吹き溜まりのような問題の地区があり、他方でフランス中どこででもこんな差別的な話しがかわされる状況がある」と言っているのである。
しかし私にはこのような会話をフランス人全般の意見だとして認めていることがラシズム的な視点だと思えてならない。
フランス共和国には人種という言葉は存在しないことをオランド仏大統領は最近宣言している。勿論それは憲法上の理想ではある。しかしフランス人はマグレブ諸国の人々が住んでいる地区だからといってフランス人とは異なる見方をしないのである。それが共和国の思想であり精神だからだ。一般的にはこのような解釈や見方をする人をさして人種差別する人として嫌っているわけだ。その点では杉山氏が指摘する、一九八三年の地方選挙の時期になると「二〇〇万人の外国人労働者、二〇〇万人の失業者」と叫ぶジャン=マリ・ルペンの国民戦線は多くの支持票を獲得することになる」と書いていることは理解できることだ。しかし選挙票の獲得の為に、政治家がフランス人の意識下に眠る人種差別を利用し、共和国の精神に反した政治行動がなされる可能性は指摘されるべきであろう。フランス人はいつでも誰でもが慢性的にマグレブ諸国の人々に不満を抱いているわけではないはずだ。
つまり杉山氏がルペンの「いいたかったこと」として指摘しているように、「二〇〇万人の外国人労働者、二〇〇万人の失業者」というのは、「いうまでもない」としながらも、「外国人労働者がフランス人の雇用をうばっているのだから」(194頁)とルペンのこころを解釈してみせている。しかしルペン氏はそれを言ってはいないのである。どうしてなのか?それはルペンのような人でもフランスでそれを言えば差別となることを知っていたからである。
杉山論文の結論は、「こう見てくると今日のフランスの人種差別といわれるものは、なにかある統一性のある現象であるようには見えない。これまでうまく機能していた共和国的諸制度の終焉、またその背後でのポスト工業社会への移行にかかわる一連の要素から生じたものが収斂し融合しているもの、しかしそれだけに根の深い問題なのである」(202頁)となって、よくわからない不明瞭な表現となっていると思える。
ただ本論文では明確には指摘はされてないが、「このような人々に国民戦線の人種差別的な言説が支持されているのである」(202頁)という箇所の「このような人々」とは誰なのかと考えると、それは189頁までさかのぼって、社会学者ヴィエヴィオルカの聞き書きとして杉山氏が引用した婦人たちのことではなかったかと思うのである。つまり極右派の国民戦線(FN)のペンの支持者たちのことではなかったかということだ。そしてその婦人たちの意見とはフランス人一般の意見ではなかったのだと思える。
【参考記事】
http://franettese.blogspot.fr/2014/10/blog-post_15.html