2017年7月17日月曜日

現代の法然を危惧 創価の世界平和論は池田大作の「立正安国論」の逆さ読み


(パリ=飛田正夫 日本時間;‎17/‎07/‎2017‎‎-08:56)日蓮大聖人が国家諌暁の書として顕された「立正安国論」(日蓮大聖人御書平成新編234頁-250頁)は、「安国論奥書」(平成新編419頁-420頁)に、「正嘉に之を始めてより文応元年に堪へ畢んぬ。」「其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て、宿谷禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり。」とある通り、今日7月17日に日蓮大聖人が国家諌暁をされた日である。この「立正安国論」は現代の我々の信仰に大きな意味をもっている。この日蓮大聖人の「立正安国論」を私(し)に様々に曲解・解釈し造り直した創価学会の池田大作の解釈講義などからは、「立正安国論」を法然の立場で逆さ読みしていてこれを正しく読むことはできない。それは既に日蓮大聖人自らがこの「立正安国論」の中でもって、法然の行った「法華経」破壊の捨閉閣抛のやり方として指摘し批判を加えているわけだ。そのやり口と同様な日蓮大聖人の仏法を正しく伝える日蓮正宗を打ち破らんが為に、創価学会の立てた世界平和論は「立正安国論」に於ける客人の主張である法然のいう立場からのものであった。すなわちこの仏教破壊の誤りが、実は日本国の三災七難、天変地夭・飢饉疫厲の原因であると指摘されているのである。日本の創価学会の仏法逸脱も日蓮大聖人の「立正安国論」から考えると、福島原発事故だけでなく今後この三災七難、天変地夭・飢饉疫厲が様々な所で競い起こることは間違いないということだ。そういう意味をこの「立正安国論」は現代のわれわれに問うているわけである。

「立正安国論」は法然流の仏法を破壊する棄謗を日蓮大聖人は厳しく破折された書なのだ。その法然の手口は今の創価学会にも流れ込んでいて、日蓮大聖人の「立正安国論」は、池田大作の「立正安国論講義」によって法然流の読み筋を使っての、創価の「世界平和論」が生まれたのである。「立正安国論」は主人と客人との対話形式で書かれているが、これを逆さまに取り違えることによって故意に作り変えたものであった。
正しく「立正安国論」を拝することができずに、ここでの法然の平和論の誤りを引き継ぐ客人の思想を池田大作が踏襲してしまったからだと思える。それは「四表之静謐」を先ず祈る世界平和論であった。それは、一国の個人の平和の前提というのは、個人の安全な信仰の為には先ずは周囲の安全が必要だと立て挙げた論であった。つまり、もし戦争が世界に起こってしまったのならば、御本尊も寺も焼けてしまい安心して信仰などできない。だから先ず世界の平和を実現しなければならない。そこに創価学会の使命がり世界平和運動を掲げる前提があると主張することから、創価学会の法然流の「四表之静謐」の主張が始まったのだと思える。池田大作の「立正安国論講義」の初版ではそういう恐ろしいことが論じられている。創価学会はその後この「立正安国論講義」を何回か書き直し初版の主張を隠しているようだが、ここではそれには詳しくは触れない。

創価学会のこの主張は平和文化路線を日蓮大聖人の仏教に基礎付ける意味があって「立正安国論」が利用されたとみる。
「立正安国論」での客人の立場である法然上人の手口と日蓮大聖人の主張とを取り違えるて創価学会が広めたことが、今の日本国の三災七難、天変地夭・飢饉疫厲の原因だということを知らなければならないだろう。今、我々が正しく「立正安国論」を正しく拝する意義はそこにあると言える。
日蓮正宗の信仰を、創価学会の池田大作らが「捨離の心を生じて聴聞せんことを楽はず、」(平成新編235頁)の状態に導いてしまった。
「一切の善神悉く之を捨離せば、其の王教令すとも随従せず、常に隣国の為に侵嬈せられん。」(平成新編237頁)とある。
次の御文も余りにも有名なので、覚えている方も多いとおもう。「而るに盲瞽の輩・迷惑の人、妄りに邪説を信じて正教を弁へず。故に天下世上諸仏衆経に於て、捨離の心を生じて擁護の志無し。仍って善神聖人国を捨て所を去る。是を以て悪鬼外道災を無し難を致すなり。」(平成新編237頁)
このような主人(日蓮大聖人の立場)の発言に対して、客人は反論し、主人に対してあなたは一体全体、誰を指してそんな事を言うのかと憤るのである。
そこで主人が答えたのがまた有名な御文だが、「但し法師は諂曲(てんごく)にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ふること無し。」(平成新編238頁)と答えるのである。だからこの第3段の主人の回答の最後の文には、法然という僧侶を指して、「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや。」(平成新編239頁)と言われたのである。
この日蓮大聖人の破折を受けて、それで「客猶憤りて曰く、」(平成新編239頁3行目)とあるように、自分(客人)の信じている法然が悪僧扱いされているのだと思って、憤慨して日蓮大聖人に対して次の様に問うのである。「何ぞ妄言を吐きて強ちに誹謗を成し、誰人を以て悪比丘と謂うや、委細に聞かんと欲す。」(平成新編239頁5行目)と、このように客人は日蓮大聖人こそが妄言を吐いて誹謗していると言ったわけだ。こういう所が今の創価学会の態度と大変に似ているのである。

これに正面から答えた主人は、「主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然といふもの有り、選択集を作る。則ち一代の聖教を破し遍く十方の衆生を迷はす。」(平成新編239頁7行目)と答えられたのであった。

法然というのは仏教を「捨閉閣抛」することを主張して一切の仏法を捨てさせて、浄土三部経のみが西方往生できると主張したのである。
日蓮大聖人は、「而るを法然の選択に依って、則ち教主を忘れ西土の仏駄を貴び、付嘱を抛(なげう)ちて東方の如来を閣(さしお)き、唯四巻三部の経典を専らにして空しく一代五時の妙典を抛(なげう)つ」(平成新編241頁3行)と言われたわけである。ここで「西土の仏駄」とあるのは、「皆経は浄土三部の他に経無く、仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂へり。」(平成新編240頁15-16行)とこの少し前の文で日蓮大聖人が指摘されている所の「弥陀三尊」のことで「釈尊」のことではないのである。以下はこの法然の「捨閉閣抛」の邪義への破折が論じられていく。 
「是偏(これひとえ)に法然の選択によるなり。」(平成新編241頁7行)
「是偏に私曲の詞を展べて全く仏教の説を見ず。妄語の科、悪口の至り、言ひても比無く、責めても余り有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を尊ぶ。故に浄土の三部経を崇めて衆経を抛(なげう)ち、極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る。」(平成新編242頁9-10行) 
ここでは創価学会などもそうだが、日蓮大聖人の言われれ入ることは創価学会の池田大作の解釈でしか分からないと目を塞がれ耳を閉じられたつまり捨閉閣抛されてしまった人達を説明している個所でもあるので、大変に重要なのである。ある時から、創価学会では御書は難しい「立正安国論」等は漢文で書いてある。難しい。素晴らしいのだが現代人が理解するのは難しい。これを読みに読み込んで、ルソーの話し等や卑近な例も取り入れて、誰でもが解り易いように解説した池田先生のスピーチ集を読んでこれで理解してから、難しい御書を読めばよくわかるという論法が話されるようになったのであった。これは全く恐ろしい邪義の立論であった。

この様な主人の話を聞いた客人は第6段初めで、怒って次のように言う。「汝賤しき身を以て輙(たやす)く莠言(ゆうげん)を吐く。其の義余り有り、其の理謂われ無し。」(平成新編243頁9行目) これは今の創価学会会員も同じことを言うという事である。
「立正安国論」を日蓮大聖人が国家諌暁する為に時の権力者に提出された日が今日7月14日であった。現代の法然が池田大作に当たることにもあるわけで、これは驚くべき謗法として恐れるわけで、私自身も再度この「立正安国論」を紐解いて謗法厳戒を心したわけである。