2016年12月18日日曜日

宮沢賢治の「永訣の朝」日蓮大聖人の「法華経」から読む

「永訣の朝」何十年かぶりかに読み返しました。これを初めて読んだのは中学生か、高校生のころだと思う。今読んでも新鮮でそこに「法華経」を日蓮大聖人の御遺文を通して拝していた宮沢賢治の思想が垣間見られる思いだ。妹のトシが臨終を前にして、「雨雪を取って来てくれるように」賢治に頼んだ言葉だが、今読み返しても、この「けんじゃ」はひらがなで書いてあるので、岩手地方の方言での願いを表現する語法だったのかもしれないが、たとえそうであっても、そこにそれとは別に、「けんじゃ」は「賢治」と重なっているとも考えられなくもない。これは私の考えだが、今回読み返してみて、この詩には隠れた言葉の意味があちらこちらに埋まっているのを見るからです。ここでは宮沢賢治の「永訣の朝」の詩に限って、いくつか簡単に指摘する。この詩にでて来る「兜率天」だが、これは賢治の妹トシの事を意味していると考えるべきです。そうしないと何で「兜率天」が突然に出て来るのか全く理解がいかず戸惑ってしまうのです。

「兜率天」は「兜史多天宮」(としたてんぐう)とも言って弥勒菩薩のいる浄土世界のことです。トシの名前がそこの「兜史多天宮」に二重写しにダブって隠れている。この弥勒のいる浄土に行った後に此の世に生まれてから成仏するという弥勒六部教などの「歴劫修行」・「次第梯橙」の爾前・権経での教えの見解がここにあるわけです。これは賢治の父親の信仰していた浄土真宗の見方であって、これは「法華経」の即身成仏観ではないのです。更に、この爾前・権経では、女性は回転の成仏で一度男性に生まれ変わってからの成仏・「変成男子」の成仏観なのです。女性は男性と比べて不平等な扱いにされていて簡単には成仏できない存在として見られている。

それは何故かというと経典に、つまりそこに説かれる教えに力がないからなのです。そういう爾前・権経の釈尊の教えの「四十余年未顕真実」の限界を破ったのが、女人の即身成仏が可能になる、唯一「法華経」の教えなのであって賢治もトシもそれを知っていたから、それで、父親の浄土真宗の教えを去ったのでしょう。

「法華経」にも、「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」に「若有人受持読誦。解其義趣。是人命終。為千佛授手。令不恐怖。不堕悪趣。即往兜率天上。弥勒菩薩所。」(「新編妙法蓮華経並開結」602頁-603頁 大石寺発行)とあり、この文は法華経からの一応の「即往兜率天上。弥勒菩薩所。」という法華開会の文だと拝したい。

釈尊自身が言っているように釈迦四十余年の説法は「未顕真実」の経典なのです。また「法華経」でも真実の教えは「法華経」本門の「寿量品」の文底に秘沈されているわけで、それを説き顕したのが日蓮大聖人なのです。「法華経」の読み方にそこに日蓮を標榜しながらも、日蓮正宗と一般日蓮宗との天地雲泥の相違があるのはその為なのです。賢治はそれを「法華経」文上の解釈から、浄土真宗の弥勒信仰では救いがないことを理解していたということです。日蓮を「法華経」を読む手本にしていた賢治は、明治37年8月発行の「日蓮上人御遺文」などをおそらくは、読んでいたように思われる。


しかし賢治は法華経本門「寿量品」の即身成仏の法門を理解してはいなかったことが、この「永訣の朝」の詩の表現からわかるわけです。しかしながら、それらの相違の次元とは同じ「法華経」の中でも「竹膜を隔つ」ことを指すわけだが、しかしそれらははるかに無限地獄でしかない浄土真宗の死の救済の教えからは遥かに遠く乖離していたのであった。

なぜ妹のトシが兄の賢治に雨雪などを取って来ることを頼んだのか?それはこの「法華経」を学んだ賢治に、爾前経の浄土世界で弥勒信仰の悪趣に堕ちないように、法華開会を頼むということが、「雪のひとわん」によてこの真っ白の雪があらゆる悪を覆って消すことの可能性を象徴的に表現していて、ほとんど無意識的な所作だったと思われる。おそらく賢治の「法華経」の信仰からの表現だったように思われる。

妹の病気の苦しみの本源的な治癒を、日蓮大聖人が話された「雪漆」の隠喩によって表現しようとしたのかもしれない。賢治はこれが書かれている日蓮大聖人の「西山殿御返事」を読んで知っていたのだろう。臨終を前にした妹の宗教的な救済の問題なのだ。

以下にこの日蓮大聖人の「御書」を掲載しておきたい。「西山殿御返事」(平成新編1072頁/御書全集1474頁)「青鳧五貫文給び候ひ畢んぬ。夫雪至って白ければ、そむるにそめられず。漆至ってくろければ、しろくなる事なし。此れよりうつりやすきは人の心なり。善悪にそめられ候。真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必ず地獄にをつ。法華経に染められ奉れば必ず仏になる。経に云はく「諸法実相」云云。又云く「若人不信乃至入阿鼻地獄」云々。いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候。恐々。」

妹のトシが兄の賢治に「(あめゆじゅとてちてけんじゃ)」とこの詩の中で四回言わせている。この数字だが、「四弘誓願」の菩薩の四つの誓願のことではないかと考えた。その「四弘誓願」の第一に他の人の為に尽くすという「衆生無辺誓願度」が説かれている。トシが、今度人となって生まれてくる時には自分だけのことだけで苦しまないように生まれてくると詩の中で宣言しているのが、それだと見たいのである。一般では考えられないが、トシの臨終での言葉なのだ。そのような死を前にしたトシの稀有な姿は「法華経」の思想に裏打ちされていて、念仏の教えではないのである。

「永訣の朝」の詩の中に二つの縁の欠けた器のことが出てくるが、これは物質的な表現だがその精神性の壊れたものを譬えているようだ。賢治も以下の日蓮大聖人の御文を読んでそのことは知っていたと思われる。日蓮大聖人は「御器と申すは・うつはものと読み候」と言われて、器に完器に対して、覆漏汙雑(ふくろうぞう)の四の失があると。「器は我等が身心を表す」とも(平成新編1447頁/御書全集1071頁)で書かれている。 

勿論のこと、器(うつわ)としてのトシの身体は病気で苦しんでいるわけで完器ではないわけだ。この縁の欠けた器に象徴されているこの二つの食器とは、賢治とトシの心の病であり、つまり誤った信仰であった、それは覆漏汙雑(ふくろうぞう)の四つの失を持つ父親の信仰していた浄土真宗を象徴していたといえるだろう。その壊れた器(うつわ)の上に白い雪漆(ゆきうるし)が盛られたのである。


兜率天型の西方浄土往生ではなくて、日蓮大聖人の言われる「法華経の名号を持つ人は一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。」「しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。かゝる人の縁の夫妻にならせ給へば、又女人成仏も疑ひなかるべし。」「妙法尼御前御返事」(平成新編1483頁/御書全集1405頁)


賢治の「永訣の朝」の詩で雪の白さが歌われているのは妹の臨終と大きな関係があるのである。「臨終の時色黒きは地獄に堕つ」と竜樹の大論にあり、また守護経には「地獄に堕つるに十五の相、餓鬼に八種の相、畜生に五種の相」等とあると、日蓮大聖人がこの御書に於いて引かれている。また「身の黒色は地獄の陰を譬ふ」ともあり、賢治もこの日蓮大聖人の御書を見ていたのかも知れない。


仏法ではこの臨終の相が一つの経の深さ教えの高さを決める証明ともなってもいる。あの世で往生するとか生まれ変わってから成仏するというのは真実の成仏の相を隠しているのである。ですから臨終に中風の覚者などは居ないわけであって、相も色黒に沈んでいたのでは「即身成仏」したとはいえないわけだ。たとえ病気であってもそこに現前として「一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善」とならなければならない。賢治はこの日蓮文底の理解には至らなかったようだが、そこに経の力の有無がでてくるのである。日蓮大聖人の立場で「法華経」を読むとこうなるのではないか。