2011年1月17日月曜日

チュニジア革命前夜に、バロワン仏政府スポークスマンは独裁者の保護領国との友好を確認

フランス政府スポークスマンのフランソワ・バロワン仏財務大臣はチュニジアの悲劇的な殺傷事件が1ヶ月近く続いてからやっと沈黙を破って1月13日政府を代表して初めて口を開いた。1月13日、バロワン仏政府スポークスマンは「チュニジアは旧フランスの保護領で、フランスと共有する歴史と友好関係がある。(これに)行き過ぎた口出しの干渉などするというのはフランス外交の大筋を外れたことである」と発言し独裁者のフランスの旧保護国チュニジアは友好国であると宣言していた。フランス企業のチュニジアへの進出は多いことから、両国の歴史的な友好関係を取り出して強調した。

欧州諸国や人権擁護団体が以前からチュニジアのベンアリ大統領及びその家族の企業独占、警察国家的独裁によって市民の自由が抑圧されてきたと批判されていた。13日のバロワン氏の答弁はこれに答えたものであった。

しかし14日にベンアリが国外逃亡をはかると、フランスはベンアリのフランス亡命を拒絶してもともとからこのチュニジアの独裁者とはフランスは敵対していたかのような態度をとってみせている。

12月17日にチュニジアで青果物を行商としていた一人の青年が許可証を持ってないとして品物を警察に差し押さえられた。青年は学歴もあったが不安定な仕事で住宅や生活に困窮していた。これを訴えて焼身自殺をはかった。この青年は1月4日にチュニスの病院で死亡する。同様な住宅や雇用での社会的な貧窮を訴えてチュニジア市民の不満が爆発した。警察はデモ抗議の群集に向けて実弾を撃つ事件が多発し80人ほどが死亡した。1月14日のチュニジアのジン・アビディン・ベンアリ大統領の国外への逃亡となり、独裁体制が終焉しチュニジア革命が実現している。