2016年5月12日木曜日

岸信介と戸田城聖 あり得ない構図 安倍晋三と池田大作

憲法は人に合わせる人主法従ではなくて、法に人が従うのが本筋。この文春の言葉は親にして顚倒解義(てんどうげぎ)している言葉であり、安倍晋三首相の論議のアベコベ、サカダチは実は、親譲りのものなのかと今知った。「分かりやすい言い方」といっても、その内容が悪かったのなら、どんなに噛み砕いて見せても噛む対象が悪いので、噛んでいる人間の方が次第に毒素が回って頭が顚倒解義(てんどうげぎ)して来るのであろう。そこで、なぜこのような状態に今の首相説明がなっているのかを、母親ならずとも指摘しているのだから、考えるてみると、少々心当たりがないわけではないのである。


岸信介が戸田城聖の友達だとかで、昭和33年3月16日に岸信介夫人一行を迎うと言う文章があるのを思いだしたのです。広げて見てみると、この日、岸信介首相はその頃の創価学会が本山として信仰していた日蓮正宗総本山富士大石寺に、戸田城聖第二代創価学会会長から昭和33年3月16日に招待されていたのです。岸首相は急に当日になって行けなくなったとして、代わりに婦人(良子)と娘(洋子)と男の子(安倍晋三と考えられる)を送って来たという話しです。


それが6頁ほど書いてある本「戸田城聖先生講演集 下」(昭和36年10月12日初版発行 発行所 創価学会 373頁-378頁)があるのです。


その中で戸田は、自民党の岸首相の「武運長久を祈ろうと思った」「同書」(376頁)というのです。しかし、岸信介は約束を果たせず大石寺に来なかったので、これを祈ることはできなかったとしてとても残念がっていて、次のような戸田の文章が残っている。これが非常に面白い。「石橋湛山君が身延へお参りして、そうしてなんとかの衣をもらって、位を何級かもらって、中風になってしまって。それだけはさしたくないと、岸先生の名声のある限り、このお山で岸先生の武運長久を祈ろうとおもった。」「同書」(376頁)とあるのです。

ところが、岸信介首相本人はこれをすっぽかして来なかったのですね。ですから、その孫は中風ではないが、どこか母親から指摘されるほどまともでないということならば、それには石橋湛山のような誤ったお参りをどこかでやっていたのか?ともいえそうなのです。戸田城聖の論理で言えばですが。安倍晋三首相は一つには神道の靖国神社参詣や石橋氏が参拝した身延と同じような日蓮宗各派の本尊に等しい信仰の創価学会・公明党と手を握っていることが、原因なのではないかと思ひ至ったのです。ですから阿呆を受けた(中)風者の言という事が言えるのです。

昭和33年3月16日、何故に創価学会の第二代会長の戸田城聖が岸信介総理を富士大石寺に呼んだのかというと、戸田は三週間後の4月2日に慢性の糖尿病と肝臓病が悪化して急遽東京の日大病院に送られてそこで58歳で死ぬわけであるが、その前に「広宣流布の模擬試験」と後になってから呼ばれるようになった儀式を、一国の首相を迎えて「王仏冥合」の姿を実現してみたかったようです。3月16日、病気の悪化している戸田をこの儀式を実行するために青年部が作った車駕(しゃが)に載せて山内を練り歩いたのである。「三大秘法抄」にある「王仏冥合」完成の儀式を戸田はやってみたかったのでしょう。今で言えば「政教一致」実現のことです。化儀の広宣流布の儀式を岸信介総理の参列の中で実行できると考えていたのだと思える。そういう戸田城聖の魂胆がわかったからなのかどうかは推測はできないが、これはまずいと思ったのだろう。急遽、岸はこの儀式に参加しないことになった。


したがってこの6頁の文章を読むとわかるが、非常に戸田は残念がって幾度も幾度も岸が来なかった事を悔い返し無念がっているのが手に取るように伝わってくるのである。ここに書かれている中で、「お嬢さんとお坊ちゃんと奥様と、その他自分がこの人と頼む人々をですね、さしむけて本山へよこされたその誠意というものは、私は心からうれしく思う」(……)「きょうきてくれればなにも文句はなかったのだよ。」と話しているのである。


この戸田の死を前にしての最後の遺訓ともいうべきこの文章は無念で溢れている。創価学会・公明党というのは、この戸田城聖のかたきを討て、追跡の手を緩めるな、と密かに教わり伝えてきた団体だということを忘れないでほしい。安倍晋三と組している池田大作というのは、この戸田城聖の無念さを思えばあり得ない構図なのだ。それで阿呆を受けた中風の覚者が問題になってくるのであろう。


【参考記事】

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201605/CK2016050902000128.html