とにかく面白ければ売れるわけで、雑誌や本や新聞の中の情報を人々は興味をもって買うわけだ。しかしその情報というものが筆者が足で歩き人と会い苦心し苦労して手に入れた状況に対しても共感を覚えるということがあるではないかと思っていた私には一応の感想としては非常に面白く読めた本であった。
たとえば花田はこういう。「活字情報が一方通行なのに対して、あっていれば質問したり意見を投げ返したりとキャッチボールになる」(188-189頁) 雑誌や記事のタイトルづけではなかなか難しいとしながらも5つあげている順に、「覚えやすいこと、個性的なこと、簡潔なこと、他のものと容易に区別できること、声に出して読んで、音の響きのよいこと」。
次にこれが書くときに「起承転結」や「序破急」でやってきたことが、現代では裏目に出ているのだと思うのだが、花田は取材したなかで「いちばんおもしろい話を最初にもってくる」(200頁)原稿の書き方をいっている。なにが面白いのかを決めることはこれも簡単ではないことだ。
編集者としてリスクを語っているところでは、スクープ記事には工作費や取材費という金銭面でのリスクや時間的なリスクがあって、「取材はやってみないとわからない。だが、それをやるかやらないかでは結果はまるで違ってくる。100パーセント確実なネタなんてない。取材して始めて50のものが100になることもある」(213頁) これは一言でいえば取材ということだ。
「書く修行もし、題材も蓄積」しなければならない。が「なんといってもスクープのいちばんの供給源源は口コミである。自分の人間関係のなかからネタを集めるのがいちばんいい」
花田の考える雑誌記者や編集者の性格などを指摘しているのでここでいくつか拾っておく。「雑誌記者にとって財産といえるものは人脈、人間関係しかない。どうしゃって人脈を維持し、人間関係を拡大していくかが雑誌記者の勝負だ」(66頁)とある。「もうひとつ、やはり人間が好きじゃないと雑誌記者、編集者は続けられない。いくら文章を書くのがすきでも、他人と会うのが苦痛だという人が雑誌記者、編集者を続けるのはたいへんだ」(69頁)
これは他人を配慮してもそれが情報を得るための交際術であるとしたら、人間という相手を本当に尊厳したことにはならない。
これは他人を配慮してもそれが情報を得るための交際術であるとしたら、人間という相手を本当に尊厳したことにはならない。