2011年6月19日日曜日

【コラム】 わたしのメディアへの思い

メディアにはある集団を代表した噛み付き役みたいなところがある。メディアには決して客観報道などを期待してはいけないしまた客観報道はあり得ないと考える。もし客観という顔があるとしたならば、それは仮面でありポーズを我々が見ているのである。

パリのメディア学校の卒業式での校長の講演のなかに、ジャーナリストは取材して報道するのですが、総てはレジの手にかかっているのです。それを忘れないようにという話しのくだりがあって、私は以後ひどく気になっていたのです。


最近のフランス国営放送・A2などを見ていると、報道とはかくも意図的な作品だとしかいいようのない場面にしばしば出くわすのです。(これは日本のテレビなども同じかも知れないが、わたしがそう感じるようになったからかもしれません)

先の校長の話しぶりは、ジャーナリストの取材などそのまま報じられないのが当たり前だという発言であった。

レジとは何かというと、新聞や雑誌の編集者のようなところがあるがそれよりも決定権というか権力が集中しているテレビ現場での編集権を握っている者のことだ。テレビではこれがすべてだというのは、数多くのカメラ映像の映ったテレビ画面を前にして、視聴者には何を見せ何を見せないかをその場その場で決めてゆくからである。特に実況中継の場合はそういえるだろう。

カメラマンやジャーナリストは取材するがその総てが必ずしもテレビの画面に映るわけではない。そうするとこのレジの政治性や人間性が非常に重要になってくるだろう。

メディアは客観性の追及でも真実の報道でもないようだ。現実を巨大な仕掛けで創り直した極めて意図的なイデェオロギーの操作マシンである。それを気づかれないように配慮しながら客観報道として実現させる極めて陰険な洗脳機械のようにも思える。そのために同じ新聞やテレビ局を長年見続けさせられるという麻薬的効果も布陣されているようだ。

先ほど例にだしたA2だが、国営放送というのはきわめて公共的なものであるはずだ。しかしこのテレビ局長をサルコジ大統領が任命している。公的な報道機関の場合には絶対にこういうことは民主主義国ではあってはならない。

報道が国民の感情や思考に多大な影響を及ぼすことは当然なことであるからこそ、政治家が介入すべきではない。

朝日とか産経とか民間のメディアなら客観報道を特別に目指す必要はないのではないだろうかと考える。そのよって立つ思想的な基盤をある程度は明確に打ち出すべきで隠さずに明かしその立場から自由に書いてよいのではないのか。

その立場立場で福島原発基地事故報道などもやればよい、市民に多くの選択肢を提供する情報を提出すべきだ。虚偽の報道や真実を誤魔化した報道もあるかもしれないが、よしあしの判断は市民である個人の責任で各自各自がするのが理想的ではある。

無意味な情報の洪水はわざと造られている様なところもあって、読者は時間的にも能力的にも財政的にもその様な総ての情報メディアと付き合ってなどいられない。時間も暇もないというのが現実ではないか。しかし、それだからといって読者の変わりにメディアが情報を選択し咀嚼し与え、しかも行為の判断まで授けることは絶対にあってはならないと考える。

このへんが民主主義の理想と実現の限界との拮抗するところだと思うが。結局のところは市民の意識がメディアを決めるのでその逆ではないということだ。これをわたしは信じたい。