2014年1月24日金曜日

柳瀬尚紀著 「広辞苑を読む」を読めば、広辞苑信仰などというものが存在しないことがわかる


柳瀬尚紀著 「広辞苑を読む」(文芸春秋)・・・言葉の外国語への翻訳では存在のまだその国に無いもの、まだその形が見つからないものに名前を付けるという作業が少なからず起こってくる。その時にどう訳すかであるが、私の考えもあるがその前に、この「広辞苑を読む」の著者の非常に興味ある面白い話しが書かれているので紹介しておきたい。

本書の124頁あたりで、「つまりまず最初に、」「我輩は何である。名前はまだ無いとう国産料理があって、それからその何に、」「外国語に擬してわが国で作られた語」「であるhashed meat and riceという名前がついた。広辞苑の括弧内の説明は不十分だが、その国産語が国内でさらにいちじるしく転訛してハヤシライスになったらしい」と説明するくだりである。

この辺の説明はいっこうに良く理解できない筋のものだが、それはそれで全然かまわない。ようするにハヤシライスが外国語に借りた国産の言葉であるということだ。

パリの日本人の子供たちに今、きわめて人気のある日本料理にポンポネットのカレーというのがある。これはカレーなのだが肉がひき肉を使ってあるのだ。ハヤシというのはhashed meatならひき肉であろうかと考える。ハヤシカレーということになるのだろうか。

著者はあちらこちらで広辞苑の物足らなさを書いている。それは初めから当然のことでこれに頼って日本語を理解しようとするのが間違っているとはいわないまでも、不完全なのではないだろうか。辞書は複数置いておくのは必要なことだ。確かに読んで味のある辞書が必要だがそれには相当の尽力が必要だろう。

フランス語辞典の「ロベール」には確かにそういう柳瀬氏の指摘するような年代や豊富な文例が掲載されている。歴史的変遷・語源・同意語・最初に文献に現れた年代や異なる用例などだ。これは辞書作りの編集方針によるのだと思う。

私自身は日本からどういうわけか「広辞苑」をもってこなかった。現在持っているのはその第3版だがあまり使ってはいない。いまも使っているのは久松潜一監修「新潮国語辞典 現代語・古語」(昭和40年11月30日発行)で1966年に求めたものである。これは一つには現代語の国語辞典では読めない古文を読むためであった。同時に現代語が引けると言う利点があった。この両者を読んで違和感がないのはこの辞書のおかげであるかもしれない。

それ以上に古文も辞書を引く事も大事だが、解説書や書き下し文などに振り回されずに何度も原文を読んでいくことで、おのずから理解がいく場合が多いし、そのほうが面白く新たな発見の喜びがあるのだと思っている。つまり現代語に翻訳されずともその異なる言葉の意味において、そこでそのままで理解が成立するということがあるからだ。

これは今では離せない辞書になってしまったが、「角川 類語新語辞典」(大野晋 浜西正人 共著 昭和56年1月30日発行)は言葉と言葉の意味の位置関係や意味のカバーする領域がわかる素晴らしい辞典である。わたしは忘れた日本語を探し当てるのによく使っている。

柳瀬尚紀著 「広辞苑を読む」を読めば、広辞苑信仰などというものが存在しないことがわかる。