2013年7月3日水曜日

ミレーの「落穂拾い」は近代と現代を繋ぐ絵画視覚の実験作 遠近法のセットを拒否

 ミレーの「落穂拾い」はよく知られたオルセー美術館の名作で、パリ南郊外のバルビゾン村近くのシャイリー・アン・ビェールの畑で描かれた。当ブログに掲載したものは、「落穂拾い」の遠景と近景の部分である。ミレーの「落穂拾い」は3人の前景の女性だけで絵の記憶になっているわけは、それは遠近法的な視覚のパースペクティブがセットになっていないからである。遠景と切り離されて前景が描かれている。個別にそれらを独立させて見ることができるからだ。しかしストリーは強く関連しているわけでその対比の面白さを見るときに、近代絵画の遠近法にはなかった印象派的な現代人の視覚を読み取ることができて大きな感動が起こるだろう。
 
この絵には消失点がないのも面白い。右奥には馬に跨って、麦の刈り入れをしている小作人を監視している1人の男性が描かれている。社会性の強い絵で、ここにも視点が行くはずだ。「落穂拾い」が遠近法で描かれていないのがわかる。

ミレーの「落穂拾い」の遠景はひどく小さく描かれていてオルセー美術館で本物を近くで見ないとよくわからない。この絵を見た時に私はすぐにリール美術館にあるゴヤの「手紙もしくは若者」という題のある大きな絵を思い出した。ゴヤのこの作品には多くの洗濯女が遠景に小さく描かれていて、構図においてまた社会的格差を持つ登場人物においても、ボルドーで死んだスペインの大画家ゴヤのこの絵は非常によく似ていた。

ミレーの「落穂拾い」は3人の前景の女性だけで絵になるわけは、遠・中・近を一つのセットにした遠近法の視覚で世界をパースペクティブのセットにして描かれていないためである。前景の3人の女性は遠景と切り離されて描かれている。しかしストリーでは強くこれらは関連している。この絵の部分で女性の手の黒い影が地面に描かれているが、これはまさしくゴヤの絵の足元の影であり、マネが「ピッコロ」(笛吹く少年)で描く事になる足元の点みたいな影だ。これは存在性を引き立てている不思議な影である。

 近景には3人の女性が赤・青・黄色の三原色で、つまり中世絵画の色使いで描かれている。ミレーはこの三原色を印象派に先立って、できるだけ混ぜないで、宗教画の人物でも描くようにして別々に使った。そしてこの絵には近景と遠景はあっても中景が広重の日本絵画のように省略されているのだ。つまり近代のルネッサンス以来の遠近法が使われていないのである。そういう意味で私には、ミレーの「落穂拾い」は近代と現代を繋ぐ絵画の実験作であったように思える。

 この絵には消失点がないのも面白い。「落穂拾い」が窮屈なルネッサンス以来の遠近法のセットで描かれていないのがわかる。