2015年8月25日火曜日

反戦デモの渦中で 日本人は自己愛を超えて 他人を愛する利他行は可能なのか

自分を理解するのも簡単ではない。ましてや他人を理解することは至難の業であると私は思う。だからといってその努力をするなというのではない。ただ多くの他人への利他行の愛は、偽善でしかないのではないかということである。本当にこころから喜べる自己愛を超えての他者への愛などは聖人君子でなければ不可能であって、我々凡人には偽善だといいたいのである。自分なりにその立場でできることをすること、つまり自分の納得できることをすることしかないのではないかと思うようになっった。その中で一番だいじなことは賞賛や、報酬や見返りを期待してはいけないということである。
 舎利佛が布施行の修行をしている時に、鬼が出てきてお前の目をくれと言ったので、しょうがなく目を差し出した。鬼はこんな腐ったような目なんかといって地面に叩きつけ足で踏みにじった。更に鬼はもう一方の目が欲しいと言ったのだが、この時に舎利佛は怒って布施行の修行を止めてしまったというのだ。

しかしこのような仏説というのはどこか我々に示唆されるものがあるが、超人的な修行のようにも思われる。さらにこのような行が他人を思い慈しむのに我々にどうしても必要なのだろうかという疑問も起きる。

だから世界平和だと戦争反対だとかいって旗を振りシュプレヒコールを打ち鳴らしている姿にはどこか決定的な解決策がない針の山を歩く人々のようにも思えて歴行修行をやらされているのだなと見えてしまうのである。その証拠にはこの活動で問題は解決してないということなのである。

そうではなくて、我々は絶対に解決でき勝利できる本物の闘いの方策をこそ行いたいと思うのである。