2015年9月4日金曜日

キリスト教は道徳律ではあるが、人間尊厳の哲学的な解明が不足

キリスト教はその歴史の中で多くの宗教戦争をやってきたが、戦争で人を殺す事を禁じているのだろうか。人をなぜ殺してはいけないのかを説明しているのだろうか。どうして人を殺すことが罪であるのかを説明しなければならないだろう。それをきちんと説明できてなければキリスト教で戦争を止めることは出来ない。これまでのように聖戦で人を殺す事を辞めさせることはできない。キリスト教は道徳的な規律として存在しているが、不十分なのはおそらくは人間の尊厳性を哲学的に説明できないでいることである。(パリ=飛田正夫 )

 「立教大学大学院文学研究科の西谷修特任教授は、自らはクリスチャンではないがキリスト教とは縁があるとし、経済産業省の前で8月27日に呪殺祈祷僧団四十七士(JKS47)が行った“呪殺”は、信じる力によって願い、思い、そして消すことであり、それはデモが持つ力だと語った」とあるので大変に驚いた。

この「呪殺祈祷僧団四十七士(JKS47)」なるものを見てみると、これは呪術による密教の祈祷だ。気になるのは「呪殺」とあり、これの「呪」は「祈」のことだというのである。それなら「呪殺」は「祈殺」となるが、これもなお大変に驚くべきことで、民主主義の世の中の話しではあり得ない。

こういうものを信じることを西谷修氏は評価しているのはどういうことなのか。しかも、「われわれの思いと願いを結集していくと何が起こるか分からない。これによって確かな信(しん)が生じる。その信を結集してこの状況を突き破っていきたい」と語った時の、「確かな信」とは「JKS47の信じる力」と同じ質のものなのだろうか。

いずれにしても信仰はその信じる対象を問い糾して信じなければならない。信が強ければなんでも拝んで願いが叶うというものではないだろう。キリスト教徒もしばしば発言する言葉であるが、立教大学コミュニティ福祉学部長の浅井春夫教授は、安保法案に反対する理由として、その一つが「いのちの尊厳のため」であると述べている。しかし、この「命は何故尊厳されなければならないのか」、これを説明できなければその尊厳の意味が分からないであろう。キリスト教は道徳律ではあるが、人間への哲学的な解明が足らないのであると思う。

【参考記事】
http://www.christiantoday.co.jp/articles/16933/20150903/rikkyo-sophia-universities-security-bills-1.htm
立教・上智の有志、共同企画で安保法案反対を発信 他のキリスト教系大学からも連帯メッセージ(1)

http://www.christiantoday.co.jp/articles/16963/20150903/rikkyo-sophia-universities-security-bills-2.htm
立教・上智の有志、共同企画で安保法案反対を発信 他のキリスト教系大学からも連帯メッセージ(2)

http://www.j-cast.com/2015/08/28243837.html
経産省前に「呪殺」の幟ひるがえる 祈祷僧団「JKS47」に霞が関騒然
2015/8/28 16:10