ジャーナリズムは哲学では勿論ないし、個人的な主張の場でもないなずです。勿論、論壇やコラム欄での主張があり、意見を戦わせる論争はあります。ところが報道記事で、小説を読むような幻想のニュース記事があまりにも多いような気がします。あるいは「意図的に造作(ぞうさ)して印象操作」を疑う様な記事があるということです。これはFBでも言えることです。
その客観情報と主観や意見との境を明快にすべきです。そこが不鮮明になっている日本のジャーナリズムの現状は心配なところがあります。FBもそういうイデオロギー的メディアの培養器になっているところもしばしみられます。それはそれで役目や意味もあると思うのですが、その場合にどうしてそれを取り上げるのかFB転載の理由はなんなのか?という自分の主張や批判を出さないと、仮面をかぶった無責任な野次馬でしかなくなってしまうということです。
自己の批判や主張が多少なりともそこにあればいいと思います。
有る方がここに書かれたことで、「世論誘導」の件でいえば、ご指摘のとおり「都合のよいように編集して世論誘導」という事があると思います。これはあらゆるメディアの多少なりともの避けられない宿命だと思っています。それで各メディアは自分の主張の足場を隠さないのです。キリスト教徒の新聞だとか、銀行家の新聞だとか、産業家のメディアだとか、共産党の新聞だとか自己主張しているわけで、その立場で書いてある。
ただし嘘や騙しがそこにあってはならないというのがメディアの最低の約束ごとなのだと思います。メディアは嘘を言ってはならないし虚構を造作(ぞうさ)して読者や視聴者を誑かしてはならないということです。お互いのメディアを利用する人は相互に監視することが必要であり、この件に関しては誤報を許して放置してはいけないのだという、濁りのない透明性が必要です。
その為のデバ(論争)が絶えずあるわけで、書き手と読み手との相互の批判の上に、客観性が少なからず保証されるということだと思います。その相互批判がなければ、メディアはイデェオロギーの拡声器になってしまうでしょう。その意味で最近のフランスのストで労働総同盟(CGT)が、共産党機関紙ユマニテ以外のすべての新聞の輪転機をストップさせて、26日はユマニテ以外の新聞は店頭に並ばなかったのです。そういう力の圧力が一方にはあるのですが、これは目に見えることで誰もが不思議に思いますが、目に見えない世論誘導がいろいろとあり、これが怖いと思います。
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