2016年6月5日日曜日

オランド仏大統領宣言の「自然災害扱い」では 「罰」は無効にならない

「罰」という事で言えば、罪は法律で罰せられるのですが、この罪を作り出す「法」が世界倫理に根差しているということです。二つほど例を上げれば、例えばパリ市内は車は時速50キロ以内で走ることにしていたのが、30キロ制限に変えれば、これまで許されていた40キロのスピードで走ると罰せられるということです。また、各地の地域の習慣法はある意味での法であり、それを犯すとそれなりの罰がある。しかし国次元の憲法を犯した場合には、地域の習慣法では許されていても罰をうけるということです。されに国際法が各国での国法を覆して、罰するという事があります。問題は、今回のフランスのように自然災害などの三災七難、天変地夭・飢饉疫厲が競い起こった場合には、これはどの次元でのどんな「罪」による、「罰」なのかということなのです。これをヨーロッパの思想・哲学を魔に受けた人達の多くが、「自然である」としてしまっているということです。ですからこの三災七難、天変地夭・飢饉疫厲というのは、人間が何かの「法」に触れた「罪」や「罰」ではないのであって、それはそういうものを超えた自然なのだというわけです。ですから三災七難、天変地夭・飢饉疫厲の中にある戦乱の説明の場合でも人間の責任ではなくて「自然なのだ」と、誰も責任のとれないどうしようもないものであって、ありきたりの凡庸性の悪でしかないと、捉えてしまいがちなのです。キリスト教徒の多いヨーロッパに住んでいると次第にそういうふうに考えている人が実に多いことに気付くわけです。


それがどうして、ヨーロッパの現在の思想がそういう事になったかというと、大枠ですが、西欧文明の源流である古代ギリシャの哲学者たちがインドの仏教に触れる機会があったのですが、そこでそれを習い損ねて捨ててしまったという事です。逆に言えば、ヨーロッパはインドの仏法との遭遇があった時に、地球論的な法を知ったということです。しかしそれを憎み嫌って捨てたのです。或いは「隠し捨てた」ということです。ですから、ギリシャ思想に民主的な人間観が保存されたのは、仏法を凄いと思いその一部を「隠し保った」ということなのです。

ここが大切なのですが、そういう次元からの、罰があるということです。ですから、ヨーロッパの人々が「自然だと言っているのは」、そういう宇宙と全人類を包む「隠し捨てた」ところの「罰の原理」が隠されて残っているからなのです。最近はそういったギリシャ世界、つまりヨーロッパの思想の源流と思っている思想が、実はインドの智慧との接触の時にもたらされたものであるという研究もあるようですが、わたしは昔し東洋文庫にあった「ミリンダ王の問」を読んで考えたのです。

日蓮大聖人の『御書』には凄いことですが、世界の「すべての善言はこの経より出でたり」と確かあったはずですので御覧ください。この場合の「この経」とは「法華経」を指すわけです。「法華経」が説かれる事によって女性であった竜女が初めて成仏ができここに真実の男女の平等が説かれた。法華経によってはじめて悪人が仏と同じ生命であるという万人総ての成仏が可能になったのです。念仏の「悪人成仏」説などはこの「法華経」の一念三世の玉を盗み取って来て、念仏自愛の経典の中にももともとあったのだと言って何も知らない人々を騙しすかしたのです。ヨーロッパの民主主義思想にもそういうところがあるのです。ですから、フランスのカタストローフをフランソワ・オランド仏大統領が宣言したところで、これは決して「自然の行いなのだ」とは言えないのです。因果があるということです。その因果の体系がG7伊勢志摩サミットでの神道の本拠地である伊勢神宮訪問を機に更に強化してきたということが意味があるのだと思います。しかし何もわからない人々は依然として多く、この「災害は自然なのだ説」を疑わないでいるわけです。ですから、三災七難、天変地夭・飢饉疫厲の解決が全然ないわけです。隠されているのですから当然これから更にこれらの誤れる宗教を信じる国々に災禍が増大するのは当然なのです。