2016年6月5日日曜日

仏教と言っても、「四十余年未顕真実」の「般若波羅蜜心経」等に、「即」の成仏義がないこと 

幾つか問題にしなければなりませんが、先ずは仏教というのは釈尊がこの世で生まれて出家して30歳で成道し、説法を50余年間行ったのですが、その次第は天台の教判では「五時八経」を立て説法の次第を華厳時・阿含時・方等時・般若・法華涅槃時としているわけです。しかしこの順番は必ずしも経典の教えの高低とは関係ないのです。八経の方は経典の教えの内容を示しているもので三蔵経・通経・別経・円教の「化法の四経」と、頓経・秘密経・別経・円教の「化法の四経」があるのです。しばしば「四十余年未顕真実」の経典という場合には、法華経がつまり釈尊が亡くなる前の八年間に説かれて、「法華経」以前の経典では「未だ真実の教えは顕していない」と宣言したわけです。
「已今当の三説」というのは、この釈尊の経文の出てくる所は「法華経」の法師品第十です。「已説」とは釈尊のこれまで教えてきた「四十余年未顕真実」の経典をさします。「今説」というのは「無量義経」であり、「当説」というのは涅槃経なのです。そうすると「法華経」は、これらの三説の何処に当たるのかというと、どこにも当たらないので、「三説超過の経」というのです。あるいは前に出て来た八経に秀でた教えなので、「超八」ともいうのです。
 「波羅蜜多」というのは「到彼岸」ということで、迷いの此岸から悟りの彼岸に到という意味です。大乗の菩薩の六度万行という厳しい禅定行や精進行、布施行や忍辱行の修行を重ねた末にやっと到着する所をいうのです。これを指して「歴劫修行」(りゃっこうしゅぎょう)といったり、或いは「次第梯橙」(しだいていとう)の法門というのです。これは長い時間かけて梯子を一歩一歩と登り詰めていくような修行なのです。「色即是空」「空即是色」の「即」の意味が実現できてないのです。これを「有名無実の法門」というのです。意外と多いのです。どうしてかというと、「法華経」から「即身成仏」の名前だけを盗みとってきたからで、自愛の経典の中にそれに相似する文字に意義を摂入(しょうにゅう)したからです。言ってみれば騙し騙されている経典なわけで、「即」の名字はあってもその義がないのです。
例えば、「般若波羅蜜心経」は「五時八経」では最後の般若時の釈迦の教えですが、この経典の訳者には鳩摩羅什や玄奘三蔵、方城訳など多数あり、「般若波羅蜜心経」は「般若心経」とか単に「心経」と呼ばれる事もある。この経典(訳経)の解釈に有名な竜樹菩薩の「大智度論」というのがあり、その中に「経経の中にて、般若波羅蜜は、最も大なり」とあるので、ここを取り出してきて、もって釈尊の教えで「最第一」の教えであり仏教の基本なのだと立義する誤った解釈があるのです。
しかしこの「大智度論」のなかには、竜樹菩薩自身が前言を悔い返し翻した、「般若波羅蜜は秘密の法にあらず」という文もあるのです。どうしてこのようなことが起こったのかは、おそらくは竜樹ほどの大乗の大論師ともなれば、自分の誤りを悔悟し前言の誤りを翻す潔癖さがあったのだと思います。それはどうしてかというと、「法華経」の中の法師品第十にある、「法華最第一」の経文に反している為にこれを言い破る論を立てた自分が地獄に堕ちるのを恐れたからだと思うのです。釈尊の仏教を用いながら仏教徒を宣言していながら、釈尊の言葉に背きそれを破る嘘言を構える誤魔化しが厳しく裁かれることを恐れ恥じたのだと思います。
ところがこの竜樹菩薩の「大智度論」での悔い返しの後言を隠して、前言だけを取り出してこれを根拠に宗派を立てる悪僧がいたわけです。しかし、「大智度論」は竜樹菩薩という人師の立論なので経典ではないのです。仏法には「経・律・論」といって「経」に見当たらない場合には「律」や「論」が意味を持つのですが、釈尊の経典に出ていることを、「律」や「論」で覆すことは顚倒解義(てんどうげぎ)となるのでしないのです。今の念仏・禅・真言等の悪僧たちは、「法華最第一」を打ち破らんが為に、大論(大智度論)を悪用して顚倒解義しているということです。
智慧第一の舎利弗などの二乗の知識人や女性、悪人等は、釈尊の「四十余年未顕真実」の諸経の教えでは、嫌われて成仏が出来なかった。その為に、万民が誰もが平等に、「即身成仏」することはできなかったのです。
また女性が成仏できなければ真実の平等にはならないのです。ですから万民平等の「即身成仏」にはならなかったということなのです。「法華経迹門」の教えにきてから、この教えを聞いて初めて二乗や女性、悪人の成仏ができるようになったのは、教えの中に「法華経」の一念三千の玉が開示されてきてそれを人々が悟るようになってきたからなのです。「歴劫修行」・「次第梯橙」の性格を持つ「般若波羅蜜心経」や「大智度論」では、即身成仏はおろか、これを修行すると逆に苦しみが出てくるのです。「歴劫」とはそういう意味があるのです。「般若波羅蜜心経」や「大智度論」というのは、不幸を作る原因になっている怖い教えなのです。
最後に日蓮大聖人の見解を二つだけここに引用しておきたい。「経文を忘れて論と云ひ、釈をわすれて論という」(「種々御振舞御書」新編1065頁。全集918頁)。
「天台宗には二つの意あり一には華厳・方等・般若・法華は同じく醍醐味なり、この釈の心は爾前と法華とを相似せるににたり世間の学者等此の筋のみを知りて「法華経」は五味の主と申す法門に迷惑せるゆへに諸宗にたぼらかさるるなり、開未開・異なれども同じく円なりと云云是は迹門の心なり、諸経は五味・法華経は五味の主と申す法門は本門なり、この法門は天台・妙楽粗(ほぼ)書かせ給い候へども分明ならざる間・学者の存知すくなし、」(…)「法華経の題目は一切経の神(たましい)、一切経の眼目なり。大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に、大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば、日本国の一切の寺塔の仏像等、形は仏に似たれども心は仏にあらず、九界の衆生の心なり。愚痴の者を智者とすること是より始まれり。国の費(ついへ)のみ入りて祈りとならず。還って仏変じて魔となり鬼となり、国主乃至万民をわづらはす是なり。」(「曾屋殿御返事」新編1381頁。全集1060頁)

05/06/2016 2:15:24日本時間