2017年7月25日火曜日

仏カトリック司教テロ殺害で妹が自責の告白 兄の遺骸に手を指し延べられなかった

(パリ=飛田正夫 日本時間;‎25/‎07/‎2017‎‎-08:05)一年前の2016年7月24日に起きたノルマンディーの首都ルーアン近くのサント・エチエンヌ・ドゥ・ルーヴレイ(Saint-Etienne-du-Rouvray)教会でアメル司教がミサの最中に、侵入したイスラム国家聖戦主義テロリストにナイフで首を掻き切られて死亡した事件で、参列していた6人の1人であった妹のロゼリンヌ・アメル(Roselyne Hamel)さんが、そのテロ殺害の進行状況とミサを主催していた兄の死骸を前にそれを手をさし延べて抱きかかえることができなかった。このことが二重に私を苦しめていると自責の後悔の念を語った。熱心なキリスト教徒であるロゼリンヌ・アメルさんは、何故あの殺害の現場で兄の司教の首を切るテロと戦わなかったのか、あるいは何らかの手段で何故自分は抵抗できなかったのかと煩悶の一年間であったようだ。
そこにはキリストが磔刑になって、信者たちが泣き叫ぶ中にいたマリアの姿が浮かびあがるのである。マリアは何故子供であるキリストの処刑に抗議しそれと闘わなかったのか?キリスト死骸を前にマリアの泣き悲しむ姿は何故かロゼリンヌさんに似てはいないだろうか?

キリスト教徒の母親は子供や身内の死の危機に際して、その危険を手をこまねいて黙視していた。自己の生命の危機だけを顧みて恐怖に震え悲しんでいたのか。後で悲しみのマリヤにはなれても、そこにどこか子供の死を悲しむ母親像は感じるが、命をかけて自己の生命を賭けて子供や同胞を救うことはしたくないようであるというよりは、信仰のモデルがマリアなのでそれはできないのである。
これは理性的な解説ではなく、一瞬に起こる事件での自然な人間愛としての価値の違いで、キリスト教的な解釈での反応なのであろう。ここでも私は「涅槃経」にある貧女が一子を離さずして大河を渡る情景を思い浮かべるわけだ。人間の尊厳の宗教的な認識に大きな違いがあるようだ。ロゼリンヌ・アメルさんは政府の対応や人々の追悼の激励や慰めを讃えるが、これも極めてキリスト教的で彼女の自責の苦しみの方は消えないのである。
【参考記事】
http://www.bfmtv.com/police-justice/le-temoignage-poignant-de-la-soeur-du-pere-hamel-un-an-apres-son-assassinat-1223172.html
http://www.bfmtv.com/mediaplayer/video/quand-il-est-mort-je-n-ai-pas-pu-le-prendre-dans-mes-bras-confie-la-soeur-du-pere-hamel-967125.html