政教一致の王仏冥合(おうぶつみょうごう)の儀式=「広宣流布の模擬試験」の式典には、当時の創価学会第二代会長の戸田城聖は、岸信介総理を招待したが岸は当日来なかった。代行としてその妻(良子)と娘(洋子)と「お坊ちゃん」(安倍晋三のことだと思いますが)、この三人が、昭和33年3月16日に日蓮正宗の総本山大石寺に参列していた。付け加えるとそこには創価学会の青年部幹部として池田大作も参加していた。 |
この儀式で戸田は何を岸信介にしようとしていたかですが、「戸田城聖先生講演集 下」(昭和36年10月12日初版発行 発行所 創価学会 373頁-378頁)」によると、戸田城聖の言うには岸信介首相に「岸先生の名声のある限り、このお山で岸先生の武運長久を祈ろうとおもった。」(同書376頁)とあるのです。安倍晋三との関係もその時から創価学会と有ったということです。
日米協定と、この創価学会の戸田城聖の友人であったという岸信介は以前から無関係ではないということなのです。それより前に両者の側にどんな貸し借りの関係があったのかは詳しくは解りませんが、戸田城聖は軍国主義下の国家治安維持法に引っ掛かって巣鴨の刑務所にいたのです。それが終戦前に出所している。普通はこの治安維持法で牢獄に入ればそう簡単には出られないのです。「三太郎の日記」の著者三木清などは戦後になってもしばらく牢獄にいてそこで死んでいる。戸田の終戦前出所の理由は未だに不明なのです。
戸田城聖や当時の創価学会の青年幹部であった池田大作なども参加したこの儀式=「広宣流布の模擬試験」は政教一致の姿として王法と仏法が一致したことを現わす儀式だったのです。このころ戸田は創価学会の躍進で仏教界の大将だと自称していた。日本の岸首相を王法の代表として招いたわけです。ところが、当日になって約束が反故にされて本人は来なかった。代わりに岸総理の娘と男の子を代行とし式場に送ってきたのです。戸田城聖は岸信介首相の来なかったことを非常に残念がって何度も何度もその無念さを側近に話している。そしてその直後に持病の糖尿病が悪化して日大病院に担ぎ込まれてそこで58歳で死ぬのです。
【資料】