2017年12月4日月曜日

イスラム教徒ヒロンギャの虐殺に 宗教者ローマ教皇はサンチー女子に何も言わない

イスラム教徒ヒロンギャの虐殺問題で、ミャンマーを訪問した宗教者のローマ教皇はアウンサンスーチー女史に対して何も言わなかった。ここからすると宗教的な民族差別や迫害や虐殺に対しては、他の宗教者は口をだすべきでなく黙視すべきだとの見解が一般化されてくる危険があるということである。これは非常に無知な事態を呈しているのであって、各派の宗教的信条にはそれらを統合できる一般真理などは無くて、それぞれどの宗派も正しいのであってイスラム教徒であろうがその原理主義のサラフィストであろうが、ダライラマのチベット密教であろうが、小乗仏教やキリスト教であっても等しく信仰は平等なのだから、何を拝もうが信仰は自由なのである。外部者がとやかく言うべきではないとする可笑しな論理が当然視されて主張化されるのである。


しかし、そこに虐殺や民族差別の宗教的迫害があっても、その宗教の汚点を指して批判はしてはならないのであるとすると、これでは結局のところは他宗教者を宗教を原因として差別し迫害し差別することになってしまうのである。それは、宗教はすべて同じだからどれもこれも尊厳し尊重しなければならないという態度の中に、実は人々を苦しめ他者への残虐行為を許している例えばキリスト教や小乗仏教などの悪を容認しているのである。彼等はそういう自分たちの宗教の限界というものを過去の歴史に照らして知っているので、お互いの悪を批判し諌暁し是正することを嫌うのである。現代宗教の社会的問題はこの辺にあり、フランス共和国の政教分離(ライシテ)の精神というものの限界が国内でのテロ事件となって顕現しているのと大いに関係がありそうだ。


やはり人間がどういう状況に置かれても刀の影の近づくのを恐れ風前の灯の生命を慈しむのは誰も同じだということだと思います。自分の命を惜しまない者というのは滅多にはいないのある。それにつけてもミャンマーでイスラム教徒のヒロンギャが迫害されて多くの死者が出て彼等は住む場所もなく野宿者になっている。この悲劇の事件の責任者がノーベル賞受賞者のアウンサンスーチー女史でフランスのメディアでは、ミャンマーは仏教徒なのだと言って宗教的対立を暗に言っている。しかしそこに二つの誤解があると思う。一つは彼女の教育や考え方は仏教徒ではない。むしろヨーロッパの宗教的な価値観なのではないかと思う。もっともフランスのメディアで大乗仏教と小乗仏教の違いを説明して報道しているところは見当たらない。いずれにしても人間を殺害したり迫害することを許さない思想がそこに無い事は確かであって、これは仏教の思想とは合い入れないものなのである。やはりキリスト教や小乗仏教と大乗仏教とは全然異なるわけだ。

更に非常に前評判で期待されていたフランソワ教皇とスーチーさんとの会談では、ミャンマーを訪問した教皇はそこでロヒンギャ問題に対して何も言及がなかったと報道されているわけである。

これでは教皇が何故に東南アジア諸国訪問を企てたのかわからないわけです。キリスト教はこのイスラム教徒の悲劇を引き起こしている小乗仏教の迫害に対して、少なくともフランソワ教皇は何か言うべきであったのだと思うのです。もしも本当にこの迫害に対して、諌暁の言及が一言もなかったのだとしたならば、それはキリスト教がミャンマーと一緒になってイスラム教徒のヒロンギャ虐殺や追放を、許し承認しているということになるだろう。またそういう人種的迫害を行って来たキリスト教の価値観を自ら批判することになり、それは出来なかったという事なのであろうか。

フランソワがアウンサンスーチーと会ってヒロンギャ虐殺問題に一言も触れなかったのは、ローマ法王を取り巻く宗議会がヒロンギャの事を会見では口にだしてはならないと法皇に圧力をかけていたようだ。