2013年11月12日火曜日

戸田城聖の無量義経の悟りとは「其の身」の文字を「仏」だと変えた創価学会の教典改竄

経典改竄は邪儀ということができる。創価学会第二代会長の戸田城聖は「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年)の中で、創価学会の生命論の出どころとなった「無量義経徳行品第一」の経典を引用している。その経典の箇所には、「仏」という文字は無いのにもかかわらず、戸田は勝手に無量義経」の経典に「仏」の文字が有るかのように誤魔化してこれを解釈・添加して、「仏とは生命なり」という創価学会の生命論の基礎を立てた。さらに、無量義経」からの戸田の獄中の悟りというのは、「法華経」からの悟りではないことも大問題である。戸田の獄中での無量義経」からの悟りにはこれら二つの誤りが依然として存在するのである。そのような仏法違背を続けていると日蓮大聖人が「立正安国論」で指摘された三災七難、地震や津波のような天変地夭(てんぺんちよう)が起こり、飢饉疫厲(ききんえきれい)がやってくるのではと心配するのである。(本文の初出 / 2010年 8月 24日 10:39 )

嘘・誤魔化しが生命論の原点で良いわけがない

創価学会の戸田城聖の弟子たちは、無量義経を読んで「仏の生命を悟った」という師の『獄中の悟り』を正当化するために、無量義経の誤れる戸田の解釈を継承する。戸田の死後の出版物では無量義経の経典の文字は改竄されている。

それは師の獄中の悟りの誤りを隠すだけでなく正当化することになっている。一方、戸田の法華経解釈の誤まりを戸田自身が悔い返した筆は、弟子たちはそれを人目にふれないように隠した。創価学会は、戸田が手にして読み、彼独自の悟りを得たという無量義経徳行品第一の経典にある、「其の身」という文字を勝ってに削り捨てて、その代わりにその経文には無い筈の「仏」という文字を入れた。摩り替えの誤魔化しの経典解釈から戸田の獄中の生命の悟りができている。創価学会はこれを戸田の法華経による悟りだとして生命論の邪儀をつくった。


「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年 創価学会)発行には、経典に無い「仏とは」の文字が挿入

この無量義経徳行品第一の経典にある「其の身は」の箇所を「仏とは」にすり替えている。この創価学会のすり替えは「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日 創価学会 発行、8頁3行目)に出ている。

以下の掲載した写真に出ているように、「仏とは何であろうか、いるのか、いないのか」と考え、仏教書を読んだがわからず、無量義経につきあたりました。それには「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」(無量義経徳行品第一)とあり真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました。このようにして経典には無いはずの文字、つまり、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」(無量義経徳行品第一)と経典にあるとした。本経に「其の身」とあるのを削って、創価学会は「仏」に摩り替えて出版した。

上の写真掲載が、創価学会発行の「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日、創価学会 発行、8頁3行目)がその誤魔化しの文字の改竄をやった箇所である。上掲載の写真を参照すると、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、・・・・・動に非ず閑静に非ず」(無量義経徳行品第一)とあり真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました。」と「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日、創価学会 発行、8頁3行目)と経典の書き変えがされている。これは大変な創価学会の誤りなのである。この箇所こそは戸田の『獄中の悟り』というものが経典の改竄から出ている証拠なのである。


「無量義経徳行品第一」の経典では、どうなっているか

本当はこの箇所の無量義経徳行品第一の経典は以下のようになっていて、創価学会が改竄した「仏」の文字はないのである。「其の身は」となっている。

『新編妙法蓮華経并開結』(平成10年4月28日 大石寺発行 )の「無量義経徳行品第一」のその箇所は、「其身非有亦非無・・・・・・」(同7頁の最後の行~8頁)と正しく「其の身は」と書かれている。 同頁の下段にある現代書き下し文でも、「其の身は有に非ず亦無に非ず・・・・・・」と正しく「其の身は」となって掲載されてある。

「無量義経徳行品第一」 戸田城聖氏が読んで悟ったという34の非文字の箇所とは、上写真掲載のページの最後の行から始まる「其身非有亦非無」と次のページに続く箇所である。

「無量義経徳行品第一」(『新編妙法蓮華経并開結』 平成10年4月28日 大石寺発行)。 戸田城聖氏が『獄中の悟り』で読んで悟ったという無量義経の34の非文字の箇所。後に創価学会の生命論の原点になったものだが、創価学会は「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年8月2日 創価学会)及び、 「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行昭和40年12月10日)で誤魔化して無量義経徳行品第一に無い筈の「仏」の文字を加えて挿入した。


戸田城聖が『獄中の悟り』を得たという獄中で読んだ「無量義経徳行品第一」の経典の34の非文字の箇所には、「仏」という文字は存在しないのであった。


しかしその存在しない「仏」の文字を戸田は、「無量義経徳行品第一」を引用する中で、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、・・・・・動に非ず閑静に非ず」(無量義経徳行品第一)とあり真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました」と、「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日、創価学会 発行、8頁3行目)の中で、「」の文字が「無量義経徳行品第一」に有ると書いている。

ここで明らかなように、経典の書き変えが意図されていることだ。さらに重要なことは、この戸田の誤った無量義経の解釈を元にして創価哲学の原点となる「生命論」ができているということである。つまり、この文章に続く箇所には、『真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました』とあるからだ。創価学会はこの戸田の無量義経の悟りを更に摩り替えて法華経からの悟りだとしている。二重に仏教破壊があったのである。


日蓮大聖人の御書には師の誤りを隠す弟子がいると

日蓮大聖人は、諸御書でこの仏法の正義の味を誤魔化し隠すことについて、次のように言われている。各自「御書」の本文を参照してほしい。
「弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せしかば」「末の代はいよいよ・あをぐなり、」(種種御振舞御書)
「弟子ども隠せしかば」(種種御振舞御書)
「謗法の失を恣(ほしい)ままに覆(おお)いかくすなり」(第二捨父逃逝の事 御義上)
「深くその根源を隠し て候へば」(本尊問答抄)
「教を匿(かく)さざれ」(聖愚問答抄)
「仏法のあぢわいをたがうる人は」(妙一女御返事)
「私の言をそうるゆ へに」(衆生心身御書)
「私の筆をそへ仏説のよしを称す。」(破良寛等御書)

弟子が師の誤りを隠すと日蓮大聖人が指摘されているが、このような経典改竄の罪は重いに違いない。

今の創価学会員は仏法を学んでいるようではあるが、二重三重に隠されて盲目にされていることを知らない。戸田城聖の『獄中の悟り』こそは戸田が拝した無量義経徳行品第一からの悟りであった。つまり創価学会の原点となった戸田の『獄中での悟り』そのものが、仏法の経典を改竄せずには成立しないという誤魔化しの限界があったのだということだろう。

何故このような経典の改竄をしなければならなかったのかということだが、一つにはそれは創価学会の戸田城聖が無量義経を読んで「仏の生命を悟った」という『獄中の悟り』を正当化するためであったのだと考えられる。

戸田の読んで悟った悟りだが、その依教(えきょう)となった無量義経徳行品第一の経文上に、「仏」という文字が無くてどうしてもそこにこの文字が欲しくて書き換えをしたのだと考えられる。つまり人の都合で仏の文字を経典に挿入したのであった。

経典改竄をしながら仏典を読み解説する仏教団体とは何なのか?創価学会とは何なのか?という疑問がそこから起る。


同様な摩り替えの邪儀は、以後の創価学会の出版物でも、

同様に、後になって出版された「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行 昭和40年12月10日) 9頁の後ろから3行目でも、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」と、ここでも無量義経徳行品第一の経典の文字である「「其の身は」」を切り捨て、それに替えて創価学会は勝手に、「仏とは」という文字に摩り替えて挿入している。

「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行 昭和40年12月10日)

無量義経徳行品第一の経典では存在しない「仏」の文字を、戸田城聖全集ではこの経典には「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、・・・・・・動に非ず閑静に非ず」(無量義経徳行品第一 )とあり真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました」とある。

これが有名な創価学会の生命論の原点である戸田城聖の獄中の悟りの出どころであったが、それは嘘から出来上がったものであることが理解される。戸田が書き下し読みしたこの無量義経徳行品第一の経典には 「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、・・・・・・動に非ず閑静に非ず」の「仏とは」の文字は無いからである。

日蓮大聖人は、「仏法のあぢわいをたがうる人は」(妙一女御返事)といわれ、「私の言をそうるゆ へに」(衆生心身御書)と言われている。


以下に重要文献資料を掲載する。



以下に写真掲載したのは戸田城聖の著作「人間革命」(妙悟空著 精文館書店 昭和32年7月3日発行)の中で戸田が「無量義経徳行品第一」を引用し、勝手に誤まった解釈を立てている箇所だ。上掲載の「無量義経徳行品第一」(『新編妙法蓮華経并開結』平成10年 日蓮正宗大石寺発行)と比較してほしい。(本文の初出 / 公開日時: 2013年11月7日 @ 7:31

 















戸田城聖の著作「人間革命」(妙悟空著 精文館書店 昭和32年7月3日発行)には、無量義経徳行品第一を引用して、戸田独自の邪儀である、「論文に序論、本論、結論とある・・・・・・・・その序論に当るのだ。」と、誤まれる解釈を立てた箇所。

「其の身は有に非ず亦無に非ず、」(447頁、後ろから4行目)と、無量義経の悟りを法華経の悟りだとした戸田城聖の解釈の決定的な誤りがわかる。
戸田城聖の弟子が無量義経の経典の文字そのものを改竄した。しかし戸田の法華経解釈の誤りに起源があることは十分に押さえて置くべきだ。

戸田の誤りは、この無量義経の「其の身」の箇所を独自に解釈して、それが「仏」であるとの強い確信を『獄中の悟り』で得ていたとは十分考えられるからだ。弟子たちがさらに輪をかけて無量義経の経典そのものを改竄してみせたわけだ。

これが戸田の『獄中の悟り』となった随他意の経典である無量義経を読み込んで辿り着いた誤まった悟りの箇所である。

戸田城聖の誤りとは、無量義経の『獄中の悟り』が法華経からの悟りだと誤魔化す論術を作り上げたことにある。それが、戸田の自著である「人間革命」(妙悟空「(ペンネーム)著 精文館書店 昭和32年7月3日発行)の中にあるわけだ。無量義経は法華経の一部であると立てる論法だ。論文には、序論・本論・結論とあるとして、無量義経徳行品第一はその序論に当るとして、このように無量義経も法華経も同じ一本の論文の中のものなのだとして同等にする邪説を立てたわけである。

戸田城聖の逝去は昭和33年4月2日であるから、この著作は戸田の生前のもので、同氏も目を通して確認しているはずだ。

しかし無量義経の経典の文字までを改竄することは、戸田城聖自身は気がひけたのか仏法破壊を恐れてか控えたのであろう。これを戸田の弟子がやったのである。

創価学会発行の「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日発行 8頁3行目)の方は、戸田城聖の死後に発刊されたもので、戸田はこれを見ていない。「無量義経徳行品第一」にある「其の身」の箇所を、「仏とは方にあらず非に非ず短長に非ず、・・・・・動に非ず閑静に非ず」(無量義経徳行品第一)とあり」と書いてある。この創価学会出版の「戸田城聖先生 質問会集」において、明らかにわかるように、経典に於ける「其の身」の箇所が摩り替えられ「仏」の文字に改竄されているわけだ。すでに上の写真掲載した通り、本来の(『新編妙法蓮華経并開結』平成10年 大石寺発行)の経典には、このような改竄創価学会の誤魔化しの邪説はない。

この創価学会の戸田の「質問会集」では、無量義経の経典の「其の身」の箇所を、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」と書き変えがしてある。そしてこの引用が「(無量義経徳行品第一)」とある。上掲の写真の3行目参照。経典からの引用であると断っているわけだ。

明らかに、無量義経徳行品第一の「其の身は」の文字をこの戸田の「質問会集」に於いては削り捨てて、経典には無いはずの「仏とは」という文字を、創価学会は「無量義経徳行品第一の経典」にはあるのだとする経典改竄による邪儀を立てたことになる。

次に、別の資料でも同様な誤魔化しをしているので、以下に写真掲載する。

上に掲載した写真は、和光社刊の「戸田城聖全集 第四巻」(昭和40年12月10日発行)で、右側の本文9頁の後ろから3行目においても、「仏とは方にあらず非に非ず短長に非ず、・・・・・・・動に非ず閑静に非ず(無量義経徳行品第一)とあり」となっているのがわかる。つまり、「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、」というように「無量義経徳行品第一」にはないのだが、創価学会は無いはずの「仏とは」という文字を勝手に作り上げてここでも経典に抽入されている。このようにして、戸田の「仏とは生命なり」という『獄中の悟り』の悟りが生まれたのである。

上掲載写真の後ろから2行目に、『真剣に悩み考えたすえ、「仏とは生命なり」と考えが開けました。』とそのことが書かれている。戸田はいったい何を真剣に考えていたのでしょうか。仏法を盗む法改竄の手口を考えていたのでしょうか。

戸田城聖の『獄中の悟り』である「仏とは生命なり」とは、無量義経における経典改竄によって成立しているということを創価学会員が知ることは非常に重要なことである。

戸田城聖の逝去は昭和33年4月2日だが、その死後に出版された創価学会発行の「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日発行 8頁3行目)や、和光社刊の「戸田城聖全集」(昭和40年12月10日発行 9頁後ろから3行目)では、偏者が勝手に「其の身は」の経典の箇所を切捨て、「仏とは」に変えてしまったことが、上掲載の写真で明快になった。

『新編妙法蓮華経并開結』平成10年 日蓮正宗大石寺発行を見てみれば、創価学会がした誤魔化しの経典改竄がよくわかる。

「無量義経徳行品第一」には「其の身は」とある箇所は、創価学会では無くなっていて「仏」という文字に摩り替えられている。これは創価学会の経典改竄の証拠である。

戸田城聖氏は、『「仏とは方に非ず円に非ず短長に非ず、・・・・・動に非ず閑静に非ず」(無量義経徳行品第一)とあり真剣に悩み考えたすえ「仏とは生命なり」と考えが開けました。』と、ここで言っているのである。つまり戸田はここで、「無量義経徳行品第一」の経文に「仏」という文字があると嘘をついているわけだ。あるいは後の創価学会が戸田に嘘をつかせたのかもしれない。いずれにしても、無量義経のこの箇所には「仏」という文字はないのである。

この無量義経の誤魔化し解釈は有名だが、無量義経では法華経の悟りと等しくはならない。また戸田は、『獄中の悟り』だなどと劇化して見せたが、経典をいじり私的な文字を添加して『仏』の文字が無量義経にあるといって経文を改竄した。またそれを隠した戸田の弟子たちの編集の罪も大きい。師弟ともに堕地獄の根源をつくっているといえる。師の誤りを後の弟子たちが二重三重に必死で隠したわけだ。そういう誤魔化しをしたのが池田大作が編集した出版物である。

しかし以下に引用した日蓮正宗発行の経文ではそのような創価学会のした誤魔化しはない。無量義経徳行品第一の問題の箇所を写真掲載したので見てもらいたい。


『新編妙法蓮華経并開結』(平成10年4月28日 大石寺発行 7頁)には、 「無量義経徳行品第一」のその箇所は、「其身非有亦非無・・・・・・」(同7頁の最後の行)と正しく書かれている。 同頁の下段にある現代書き下し文でも、「其の身は有に非ず亦無に非ず・・・・・・」と正しく書かれて掲載されてある。

ところが創価学会はここの経典の箇所を、つまり「其の身」という文字を「仏」という文字に摩り替えて印刷して、経典の「無量義経徳行品第一」には、戸田の読んで悟った「仏」の文字はあったのだと立てたわけである。「戸田城聖先生 質問会集」(昭和38年年8月2日 創価学会 発行、8頁3行目)及び、「戸田城聖全集」(池田大作編集、和光社発行 昭和40年12月10日 9頁の後から3行目)

日蓮大聖人は、諸御書でこの仏法を誤魔化し隠すことについて、次のように言われている。各自「御書」の本文を参照してほしい。

「弟子ども隠せしかば」(種種御振舞御書)

「謗法の失を恣(ほしい)ままに覆(おお)いかくすなり」(第二捨父逃逝の事 御義上)

「深くその根源を隠し て候へば」(本尊問答抄)

「教を匿(かく)さざれ」(聖愚問答抄)

「仏法のあぢわいをたがうる人は」(妙一女御返事)

「弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども弟子ども隠せしかば」「末の代はいよいよ・あをぐなり、」(種種御振舞御書)

「私の言をそうるゆ へに」(衆生心身御書)

「私の筆をそへ仏説のよしを称す。」(破良寛等御書)

弟子が師の誤りを隠すと日蓮大聖人が指摘されているが、こういう風な経典改竄の罪は重いに違いない。
今の創価学会員は仏法を学んでいるようではあるが、二重三重に隠されて盲目にされている。戸田城聖の『獄中の悟り』は戸田が拝した無量義経徳行品第一からであった。つまり創価学会の原点となった戸田の『獄中での悟り』そのものが、仏法の誤魔化しから始まっていたのである。