2014年1月30日木曜日

近代天皇制ファシズムと創価学会設立の謎・・・柳田国男の資料をもとに


近代天皇制ファシズムと創価学会設立の謎の相関性を述べることは非常に難しい。理由は簡単でそのころの資料が簡単には手に入らないことにある。また創価学会側の情報が多すぎて正確な事実がわからなくなっていることもあるかもしれない。・・・柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7  1974年3月20日)もそういった謎を解くための貴重な資料の一つになってきたようだ。

創価学会が近代の天皇制ファシズムと闘ってきたかどうかはわからない。天皇制ファシズムを灰燼させたとも思われない。創価学会が日本の軍国主義をどのようにして乗り切ったのかもまた敗北したのかも本当の事実がわからなくなっている。しかし今これを少しでも正しく知っていくことは必要だろう。つまり創価学会という宗教団体として近代の天皇ファシズムの軍国主義と闘ってきたのか?という疑問である。柳田によると牧口は新興宗教の教祖でもなく、創価学会という宗教性とは無関係であるといっている。

柳田国男著「故郷七十年」の中に「私の学問」という文章があり、そこに創価学会のことが書いてある。ここにはこれまで私が聞いてきたこととは大部異なる見解が幾つか書かれていて大変な驚きであった。

この本の中で、柳田国男が牧口を述べた箇所で、殺害され崇峻天皇の謎を解くことに関係していると思われる文章が少しだけ出ている。それは「蘇我物語」の箇所(313頁から314頁)である。

なぜ崇峻天皇が馬子の一派に殺害されたのかとうことはいろいろな見解があるだろうが、私は仏教伝来と関係していると見ている。つまり蘇我の馬子は聖徳太子と供にこの外来性の仏教を広め信仰しようとした。それに対し物部氏側が土着性の日本の神を主張しこれに反対した。天皇は両者の間で勅宣に判断が揺れる。物部氏を失い、天皇家に婚姻で介入し皇子を儲けて高挙りをなした蘇我氏は天皇の後見人となった。同属の争いの中で崇峻天皇殺害があったのだとみたい。

そこで偶然かもしれないが、柳田の指摘しているのは非常に面白く、創価学会はその前は創価教育学会であったという。そして創価学会は戸田がつくったといっている。「それを新興宗教の名にしたのは、戸田城聖の仕業か、そうでないまでもずっと後の考えから来ていると思う」(312頁)とまでいっている。つまり牧口とは創価学会は関係ないというのである。これも創価学会ではあまり聞かれない面白い貴重な見解であろう。一般に創価学会では、創価学会は牧口常三郎と戸田城聖との二人でつくったといわれているからだ。

そうすると牧口常三郎の創価教育学会はどうなってしまったのかという疑問が残る。全部を創価学会が吸収してしまったのだろうか?吸収というが、牧口常三郎の創価教育学会と戸田の創価学会とではどこが異なるのだろうか?明らかに柳田は学問と宗教を彼らの相違点において見ている事がわかる。だから柳田は、「牧口君自身もその人に非常に望みを託していたようだ」(312頁)といっているわけだ。この「その人」とは、「独習の社会学者で田辺寿利」(311頁)のことである。

したがって、牧口と戸田との関係は宗教を仲立ちにした関係では無かったと指摘されて書かれている。北海道という同郷人の関係で、「宗教に入るより前からの弟子であった」(312頁)というのだ。

柳田国男のこの本「故郷七十年」の「私の学問」の箇所に収められた文章の中に、牧口常三郎が三谷という者から法華の信仰に引き入れらたとある。そうすると牧口常三郎とうのは日蓮正宗から信仰をはじめた者ではないということになる。そのことを明快に指摘しているのがこの本の凄い主張ともなっている。いまその箇所を見てみると、牧口は、「本門寺というのに参り出した」(312頁8行目)とある。

柳田によると、牧口は三谷に引き入れられて本門寺の信仰をはじめたということになっている。これは創価学会のメンバーはあまり聞き知らないことだろう。その本門寺というのは富士山麓の日蓮宗の本門寺のことで、同じく富士山麓にある日蓮正宗富士大石寺のことではないと柳田は何度も書いている。

そしてその本門寺には真字本の「蘇我物語」があってこれは一般に流布している寛永12年出版のものと比べても非常に異なっていて、良く理解できるものでよいものだと評価している。大石寺の「蘇我物語」はこの本門寺の漢文だけで書かれた真字本を元にした訳文だが非常に解り易く訳されていて良いものだと柳田はいっている。つまり、読者にたいして柳田はこの二つの寺は同じではないことを強調して書いているのである。その本門寺の方の信仰を牧口が最初にはじめたものであると書いている。

近代天皇制ファシズムと創価学会設立の謎の相関性を述べることは非常に難しいと前に書いた。少しだけいうと、この問題は頸が切られるという点で両者は関連しているということだ。創価教育学会は教育を切り落として創価学会となった。これらは同じではなく異なるのである。その違いは既に少しく見てきたように、頭と体が続いていたのが、頸を切って頭部を別のものに挿げ替えられたために、頭と体が分裂するわけだ。

天皇制の問題でも、拝むべき対象でない天皇が現人神として信仰の対象に挿げ替えられている。仏教を廃してその代わりに天照大神の子孫として天皇が奉られる。その時に頭と体が切れるために政治がうまくいかず本人たちも死に絶えるということになる。もちろん仏教の機能神の役目であった天照大神や八幡大菩薩が拝む信仰の対象であるわけがない。それを拝んだために返って災いを増大させることになる。

本来は人間に豊潤をもたらす働きの天照大神や八幡大菩薩が逆に力が狂い天災や災害を起させることになる。善神の力も絶えてそこに悪鬼が侵入して人間の争いとしての戦争・殺戮が起こることになる。奉り方を逆さまにして誤った神の祭り方をしているからだ。仏を敬わないで神を立てそれを中心にして拝んでいるからだ。結果は逆さまな倒立した世界になる。これは日蓮大聖人の書かれた「立正安国論」の思想である。


以下に写真掲載し資料とした。8頁に渡る文章は、創価学会の草創期に関する柳田の論考が書かれてある。



柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7   1974年3月20日)307頁





柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7   1974年3月20日)308頁



柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7   1974年3月20日)309頁



柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 71974年3月20日)310頁


柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7  1974年3月20日)311頁


柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7  1974年3月20日)312頁
柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7  1974年3月20日)313頁


柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7   1974年3月20日314頁



柳田はこの文章を次のように書き出している。「明治四十三年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に郷土会を創立したが、その定例会員は石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏、牧口常三郎などという人たちであった」(同書307頁)

(…)

「郷土会」のもとになったのが、「郷土研究会」という集まりで、明治四十年か四十一年ごろ、私の家で始めたものである。そこへ新渡戸稲造博士が西欧から帰って来られたので、後には新渡戸先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。話題のもとは開園各自の旅行の報告で、一番熱心だったのが早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介した中桐確太郎君は、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人ときいていたが、ことによるとこれも牧口君が連れてきたのかもしれない。小田内君の関係で他にも一人二人会員になった人があったが、とにかくそういう人たちが全部新渡戸先生の方へ移ったのである」(同書308頁)

(…)

この柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書 7   1974年3月20日)の中で、柳田は「郷土研究会」が、「郷土会」になった。「創価教育学会」が「創価学会」になったという辺りの事情を書いている。

柳田は創価学会の創立者が牧口常三郎であるという世間の通説を挙げながらも、牧口が新興宗教の教祖ではなくて宗教者ではなかった。戸田城聖あたりから創価学会の中味が宗教団体になってきたことを明かしている興味深い文章だ。