2016年6月10日金曜日

仏教の「慈悲」とキリスト教の「愛」、「愛」では世界の困難を救えない

私は信仰と社会生活が次元の異なる別なこととは考えていないのです。生活が即信仰であり信仰が即生活なのです。そこに特別な立て分けがない。ですから社会変革ということも個人生活の向上ということも信仰と相即の関係にあるのです。「諸法実相」というも「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」等云云というも、これは一応の辺の理解からは、この世のあらゆるものが平等で分け隔てがないということを言っているのです。ですから仏教的な図式化をあえてしてみれば、「キリスト=人間」となっているわけで、これはキリスト教徒の嫌悪するもので全然喜ばれないものです。


このキリストと人間の関係を、有る人は、「キリスト≒人間」と捉えてこの図式は人間側のことであって、神の側はこれとは異なるという。しかもこの図の示す意味は、神の側からの恩寵(愛)があるのだという。その場合のキリスト側からの人間側への愛の図式とはどういうことになるのだろうか?「キリスト≩人間」ということなのか?

キリスト教の「愛」も仏教の「慈悲」もこういう根本的な構造は同様だと言う人がいるが、はたしてそうなのか?キリスト教の神は被造物で不完全な人間に対して総てを与えるそういう「愛」なわけです。しかし、仏教の仏は人間に対して総てを与えないのです。与えるのではなくて、人間が総てを仏と同じく内在させて持っていると考えるので、その蔵を開かせることを「慈悲」と言っている。これは愛とは言わないで慈悲と言っているのです。慈悲とは与えるのではなく奪うのです。これは与奪の法門といって、これに一応・再応があるのです。

一応の辺では、キリスト教の愛のようなものともいえる。仏教にはそういうキリスト教的な教えも誘引の方便としては一応はあるのです。しかし再応の理解ではキリスト教のような与えることでは、現代の戦乱・難民などで苦しむ人々を救いきれないのです。その地獄の底で苦しみ喚いている阿鼻叫喚の人間が実は仏と同じ宝を持っていると説くわけです。ですから仏教の「慈悲」というのは「厳父の慈」「悲母の愛」と両義があるのです。けっしてキリスト教の「愛」だけではないのです。多くの人は、仏法の「慈悲」がキリスト教の「愛」と同様な構造を本質的にもっていると思っているが、そうではないのです。

ここに二元的差別がすでに乗り越えられないキリスト教の愛の構造が露呈しているということです。与えるということは万民平等に与えなければならない。いまの世界を見てみるとそれがそうなっていないのです。いくら祈っても信じても万民が平和と安穏を与えられているわけではないのです。そこに愛を与える誤りがあるのです。

キリスト教的な与えの愛を解決法として選択している現代社会だからです。そのようなキリスト教の愛を基本とすると、ますます人間は餓鬼と貪りの世界へと堕ちていくのです。それを止めさせることが本当の愛なのです。そういう偏執したキリスト教の愛に囚われないこと、愛で人間を騙すことが良くないことだと指摘することを「奪」といっておきます。