2016年6月10日金曜日

創価学会の「生命論」から「宇宙の法」への展開の謎

創価学会には戸田城聖の獄中の悟りというのがあって、戸田城聖が「仏とはそれは命なのだ」と悟達することによって、これが創価学会の生命哲学の基礎となり「生命論」と一般には言われていたものだ。ところが、これが創価学会の池田大作は「仏とは宇宙の法」であると取り換えたのは余り知られてない。そしてその「宇宙の法」を誰もが視覚化できるよいうに書き顕されたのが御本尊で、それを日蓮大聖人が為されたとすることで、人法一箇の背後に上位の「宇宙の法」をたてることになったのである。この問題で、創価学会・公明党の「生命主義」があるが、これは創価学会では戸田城聖の獄中での悟りである「仏とは生命なのだ」という釈尊の経典では「四十余年未顕真実」である「無量義経」の経典読誦とその考察から発した「悟り」の言葉だったのです。ところが戸田も創価学会もこの創価学会の生命論の原点となった戸田城聖の獄中の悟りが、「法華経」からの悟達だとして誤魔化し続けたのです。だから創価学会・公明党は悪から悪へと堕していったのは、法華誹謗に原因があったわけです。悪くなるのは当然なのです。(パリ=飛田正夫6/10/2016 4:44:55 日本時間)
「無量義経」と「法華経」を同じる悪義を戸田が獄中で悟ったわけです。やり方はアマルガムという「並べ・同時・換える」という方法です。その後、戸田の弟子である池田大作は、これでは創価学会は仏法違背の邪宗団体と同じになってしまうと考えたのだと思いますが、創価学会員等が気付く前に、是の誤りを隠して、「仏とは宇宙の法」なのだと打ち上げたのです。戸田の悟達は創価学会の「生命論」の根拠となっていたのだが、これが誤っていたので、戸田の悟りとの関係などには一切触れずに、池田の筋だけを言い出した。人間の中にある小宇宙が仏の悟りである大宇宙の法に調和するなどと、可笑しな発言があったのです。

創価学会の言う「仏」とはこの池田の提出した、「宇宙の法」であった。この見えない法を視覚化させたのが日蓮大聖人の御本尊であると創価学会は立誤った法を立てたわけです。そうすると、もうこれは「日蓮正宗」伝来の仏法ではなくなってくるのです。一般他宗「日蓮宗」一派や小乗教の教えと余り変わらなくなってくるのです。

どうしてそんな教義改変を創価学会がしたのかは、つまり教義改変することで、尊むべき「御本尊」を下げ住み捨て置いて、誤れる「宇宙コスモス」を拝むわけですから、当然のこと、いくら生命浄化の勤行・唱題の祈りや禁欲などの六度万行の前提・活動があったとしても駄目なのです。本尊が誤っていて悪魔に祈っているようなものですから、「希望ならぬ欲動」(禁欲か名誉欲か性欲)が入り込みこれに支配されてしまうわけです。創価学会は誤った仏教の教理に迷って日蓮正宗の伝統法義では稼げないと思ったのか、独自の教義である「宇宙の法」を入れて教義を変更させてしまったということです。これはフランスは、世界でも早かったと思います。フランスは哲学に興味がある人が多く仏教学者が多い国でもある。

世の中に去年の暦をめくって暮らす人はいないはずです。哲学者や思想家ならなおさらで、つねに現代の地上の世界が問題になるのだと思います。

キリスト教の「愛」の誤りを指摘することが仏法での「慈悲」であり、キリスト教の「愛」と仏法の「慈悲」は全然同じではなく別のもので、キリスト教の愛と仏教の慈悲は一致してなどいないのです。むしろ、これらを並べて一致を立てたがる、昨今のキリスト教徒のような小乗に堕ちた「創価学会」などが、仏法を習いそこなって理解して自宗に摂り込む人は多いのだという事なのです。その理由は前に書きましたが、現代の人々の様々な問題や疑問解決にこれらの宗教は答えようとして失敗したという事なのです。

キリスト教が、仏教の神髄を摂り込んで、それで教義の再生を謀ろうとしているのかも知れません。創価学会もそれをやって、誤魔化しと盗法などが暴かれて失敗したのです。実はそういう試みがあったのは日本よりも私の住んでいるフランスなどの方が早かったのです。国外で実験的にやったのかもしれません。仏法を知らない人ばかりでしたから。いまでは世界中でやっているようです。そこには小乗・大乗の仏教僧やキリスト教徒らも加担していたのです。創価学会を教理の面で作り換えようとしていたのです。

「問題はこの「本当の基礎の世界」を、池田大作の「創価学会」は「天地・コスモス」に摂り替わらせてしまったということなのです。

これが「元来人間が持っていた」ものだというのなら、その内在性の根拠を示さなければならない。そうでなければ創価学会・公明党の誤りと同じ轍を踏むことになるのです。そしてまたキリスト教の神の恩寵が依然として完全な神の宇宙(天国)コスモスを手本として、この神の聖霊をモデルにしているのならば、祈りや禁欲のどんな絶え間のない厳しい修行を以てしても、人間に内在する聖性は、神が一人跳ね上がりしている神観の中では、人間の聖性の完成も完了も無いということなのです。

それは次第次第に一歩一歩と階段を登るような「次第梯橙」の「歴劫修行」でしかないからです。だから神は実は人間のモデルにはならないのです。完成化へ向かうかもしれないが、絶対に完成しないわけです。そこでの神の宇宙コスモスと人間の持つ宇宙コスモスはどう差別があるのか不明確なためであり、神と人間の差別なり区別が乗り越えられないで解決できないでいるためなのです。

愛の恩恵を得るための祈りや禁欲は神の完全性をモデルとしているために、キリスト教の愛では不完全な人間側で自己否定が起こる可能性は強いわけです。イスラム教原理主義者は、神の恩寵を得るために自分の死や地上の生き物の殺害が目的化されている。非常に興味あるのは、このような聖霊の内在化を目指した祈りと禁欲の絶望的な最終段階であります。神の恩恵を得るということは、目的に人間が神に近づくことが意図されているわけで、中世と同様に、キリスト教の神を崇拝する限りは神が変わらない限りは、変化はないということです。

神の「宇宙コスモス」が人間にも内在していて、神と相似だとする考えは、キリスト教の教えではないのです。どこからか他所から持って来て、キリスト教の神観に腹合わせを考えているのかと不思議でなりません。そんな感じがしました。それよりか日蓮正宗の仏法を直接、学んだ方がよいのではと思います。