2017年7月3日月曜日

アウシュビッツ収容所経験者シモーヌ・ヴェールは仏「堕胎法」の実現者 人間の尊厳を解決できたのか?

6月30日に亡くなった、「堕胎法」を仏議会で1974年に成立させた元健康相のシモーヌ・ヴェールさんはアウシュビッツ収容所で多くの人々が暴力や非人間的な扱いのなかで野垂れ死にしたのを目撃してきている。はたして彼女の実現させた胎児の成長を止める事を承認する「堕胎法」の成立は、女性やフランス人にどんな生命観の変更を促し人間尊厳の問題を解決できたのだろうか。或いはフランス人はそれをどう解釈して受け取っているのか?彼女の死を境に、「堕胎法」に関するデバ(論争)が出て来ることがメディアの一部からは期待されていた。しかしそんな気配さえなく、キリスト教徒からさえもデバが起きてないように思える。その低調さが気になるのです。人間の尊厳を考える時に、以下の二つの文が私の心に突き刺さっていていつも離れない。この機会に少し考えてみた。それは新生児や母胎内の胚種は人格として尊厳されずに人間として認めないという現代の風潮とも関係しているからなのです。「堕胎法」というのはそれを前提基盤にした上で成立しているわけで、これは人間の尊厳には不安定な合意なのだと思えるのです。

私の心にある文章というのは、一つは日蓮大聖人の御書の一文で、もう一つは涅槃経にある「黄河を産後間もない一子を抱いて渡る貧女の話し」なのです。新池御書には「如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。譬へば鳥の卵は始めは水なり、其の水の中より誰かなすともなけれども、嘴よ目よと厳(かざ)り出て来て虚空にかけるが如し。我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱えの母にあたゝめられまいらせて、三十ニ相の嘴出て八十種好の鎧毛生ひそろひて実相真如の虚空にけるべし。爰(ここ)を以て経に云く「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし。仏母の鳥は分段同居の古栖に返りて、無明の卵をたゝき破りて一切衆生の鳥をすだてて、法性真如の大虚にとばしぬ」(平成新編日蓮大聖人御書 新池御書1460頁)

もう一つの話しというのは「涅槃経」にある話しです。かいつまんで言えば、この貧女は生まれたばかりの幼児を抱いて、国を追われて国境でその前を流れる大河を渡る決意をするのです。貧女はこの子を話さずに河の流れの早い中ほどで力尽きて二人とも溺れてしまうのです。

昨年の話ですが、難民の家族が地中海を渡る時に遭難し子供のアイリン君は溺れて溺死して海岸の砂浜に打ちあがっていた。親は助かって子は溺死したわけです。それが悲しくてこの写真は全世界を駈け廻りました。

母親の愛は天空を貫く山よりも高く大きいのですが、また親子共々に死ぬよりは良いではないかという意見もあるかも知れない。しかし困難な事情の中で子が親をではなくて、親が子を見捨てる場合も意外と多いのです。

この貧女はこの一子を捨てなかった為に共に溺れて死んだのですが、その子を捨てなかった慈愛によって子と共に梵天に生ずることができたのです。私の理解では、貧女とは家も無く夫もなく餓えに苦しみながら、諸国を渡り歩き乞食をして暮らしていた女性です。そして虻蜂などの毒虫に血を吸われ、ある時に子供をやどし宿場の宿で一子を生むのです。この宿の主人に駆逐されて、一子と共に大きな大河の前までくる。そこで彼女は産してまだ間もない一子を抱いて河を渡り他国へ行こうと決めるのです。貧女は、穢れた自分の命を浄化したいとか成仏を求めていたわけではなかったのですが、只この一子を何があろうとも捨てなかったという慈愛の一分の行為によって、仏界に生まれたという話しなのです。

シモーヌ・ヴェールさんはアウシュビッツ収容所でユダヤ人として収監され、他の家族とは異なって妹と母と一緒にいることができたとその優遇されていたことを語っている。それにしても、彼女の人種差別に対するまた不合理な大量虐殺に強い怒りがあるのがわかります。しかしこれが人間の尊厳の問題をきちんと解決できているとは思えないのです。


【参考記事】
フランスの代理母出産GPA(PMA)法は総ての独身女性にも適応へ カトリック教徒は否定的
https://franettese.blogspot.fr/2017/06/gpapma.html

シモーヌ・ヴェイユさん逝去の30日 ドイツ議会で同性愛者の結婚が欧州第14番目で議会承認
https://franettese.blogspot.fr/2017/06/3014.html


慈愛の一分を持つ貧女 産後間もない一子と共に大河を渡る話し
https://franettese.blogspot.fr/2016/08/blog-post_64.html