2011年2月15日火曜日

「ルポ」ビエーヴル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館


(1)フランス創価学会青年部との出会い 



2010年3月13日、初めてこのヴィクトル・ユゴー文学館をわたしは一人で訪ねた。わたしの友人がこのユゴーのシャトーの前を仕事の帰りにわざわざ寄り道して通るのだとある時に話していた。この友人によるとこの辺の山には創価学会の池田大作会長の魂が宿っているのだと真剣になって話していたのがひどく気になっていた。彼はこの風景が創価学大学のある八王子の山麓と似ているのだと説明している。

わたしが訪問した時にはルーマニア人の婦人がベンツを同館の庭園内の駐車場に乗りつけていた。婦人はベルサイユ宮殿近くに住んでいるといって大変に愛想がよい。「大変よかった、次は夫を連れてきたい」と上手なフランス語で話した。婦人はルーマニア人であった。

わたしが庭園の中心にある本館のシャトーに入った時にはこの婦人一人が訪問客でステファンという学芸員がシャトー内の案内をすでに始めていた。



冬が明けて、パリの西近郊のビエーブル渓谷にある「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」の開館を待った。連載ルポの第1回は「フランス創価学会青年部との出会い」。ここには創価学会員が特に男女青年部が活躍していた。
わたしは、晴れやかにドレスアップした接待の女性達がいる玄関のホールに入り入場券を渡した。半券が返されて、「何語がわかりますか」とフランス語で質問された。「フランス語なら案内が始まったばかりなので、よろしければ、一緒にどうぞ」といわれ、学芸員のステファン氏が説明しているユゴーの若い頃の作品『死刑囚最後の日』などが展示された南東に窓の向いた部屋へ案内された。
するとわたしの直ぐ後からジーパンにジャンバー姿の体格のガッチリした青年が入ってきた。大きなバックを肩から斜めにさげている。青年も訪問客らしい。


しかし、この青年が単なる訪問者ではないことに気がつくのにはそれほど時間はかからなかった。どうもこのフランス人の男性は日本から来たばかりだという若い娘さんによってここに連れられてきたという設定なのだ。

が、これがばれてしまった。この青年は創価学会の青年部でわたしを監視するためについてきていると直感した。一緒に来た若い日本の女性はこの男性と一緒に見学をしないのはフランス語がわからないという設定なのだろう。

訪問者らしきこの日本から来たばかりだという若い日本人女性を案内していた管理人の日本人男性は、学芸員の案内する私たちのグループを前に後ろにすれ違いながらシャトー内を見学していた。


「いいところがあるから、いこーって、連れてきたの」と、彼女はどこの美術館でもあるような、訪問の最後の部屋などに設けられてある記念品や絵葉書の並ぶブティク・コーナーで、そこに置かれた筆記帳を前にして、私の方を見て宣言するように呟いた。

わたしはこの女性を知らなかったし、それでわたしが創価学会員ではないと言い返す必要もないと考えて答えずに黙っていた。

「連れてきた」という男性は、先ほど私の後から入ってきた人で彼女の発した日本語がわからないのであろう。記念品の本や書籍などをいくつか手際よく選んで、管理人のガイド氏にお金を払って品物を彼女に渡した。少しへんだ。が、どうもプレゼントらしい。

若い女性は何気なく質問してきた。「フランスには長いのですか?」「フランスで暮らすのはどうですか?」と、挨拶のような質問であった。

私は、「今のフランスでは仕事がないと難しい。滞在許可は簡単には取れないから」と短く答えた。

管理人のガイド氏はお金でも計算しているのかテーブルの上に置かれた小さな金庫箱を前に首を垂れたままじっとして私たちの会話に耳を傾けていたようだった。

私は彼の方に顔を向けてからこの女性に「ヴィクトル・ユゴーを食べなければね」と続けて答えた。

管理人のガイド氏は反射的に「ヴィクトル・ユゴーを食べる?」と、私のいった言葉を低く口ごもって繰り返し、一瞬だが顔を私の方に向けたが、また下を向いてそのまま黙ってしまった。

青年とこの二十歳前後の女性はフランス語で話していた。来たばかりにしてはフランス語がかなりうますぎる。

私は翌週に再びビエーブル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館を訪問した。同館は土日の午後にしか開館されてない。今回は館内の訪問ではなくて管理人のガイド氏に話を聞くためであった。

ユゴー文学館の敷地には本館のシャトーの他に北側に道路に沿って管理人宅があり南側にはビエーブル渓谷を流れる川岸から30メートルほどの高台に同館の運営する喫茶店がそれぞれ別棟で建っていた。


(2)石と金板の「石碑」 詩集「秋の木の葉」の詩「ビエーブル」 



ヴィクトル・ユゴー文学館は日本人客が来ると管理人のガイド氏が館内のガイドをしている。この方に館内の案内を二回ほどしていただいた。

一度は他に日本人客がいなかったので私一人が聞き手だった。二度目は若い夫婦の日本人といっしょで、男性はプラズマ発電という難しそうな研究をされている研究者であった。エッソンヌ県に二年ほど住んでいてあと一年ほどフランスには滞在する予定だとガイド氏との話しでわかった。ガイド氏はその研究所がどこにあるのかを知っているといった。

若い女性の方は奥さんのようだ。今は「草刈が、わたしの仕事なのです」といったあとで、「おくさんはどんな料理をつくるのですか」とガイド氏が切り出した。「自分はフランス料理を勉強していたのです」とも話す。

わたしは「今回のガイドは、先日初めて案内していただいた時とまるで違っていて、大変に立派なものでありました」と二人の前でいってみせる。続けて、「以前にステファン氏の説明を聞いたが、それよりも、ガイド氏の方がはるかに素晴らしいと思う」と感想を述べた。二人の若い夫婦は私の言葉にうなずいたようだ。

これでは何だか私がガイドと釣るっているみたいにも二人には見える。そうではないことを示すために、私はガイド氏の説明に時々なにかコメントをしたり質問をしたりしなければならなくなった。そうでないと私も創価学会の青年部になってしまうからだ。

「ユゴーが亡命中のグルノゼー島にも婦人だけでなく愛人のジュリエットも連れていったのですか?」とか、このビエーブル市の隣町のジョイ・アン・ジョザスの丘の上にはジュリエットのためにユゴーが借りた家があるが、そこにもこのユゴーの「秋の木の葉」の詩集に収められた詩の一節が大きな古ぼけた石版に刻まれて家の壁に貼り付けられてありますね」などと話したのである。


じつは、ヴィクトル・ユゴー文学館の庭園の奥にも石碑があった。そこにこの「ビエーブル」の詩の一節といっしょに創価学会の池田大作氏の名前もどういうわけか刻まれてあった。こちらの方は金版の上に文字が彫られてある。


詩文の彫られた石碑にはどうしてここに池田氏の名前が書かれているかが説明されてある。それは(池田が)ここでこの詩を読んで、この場所で生活していたヴィクトル・ユゴーを偲び感動したので、石碑を作らせたとある。


これだけでも驚くべき厚顔さだ。どうも池田氏の読んだ「秋の木の葉」詩集に収められた「ビエーブル」の詩というのは、フランス語ではなく日本語訳であったことが想像されるのだ。


どのような訳を池田氏はここで読んで感動したのかは知らないが、ヴィクトル・ユゴー文学記念館で日本人訪問者に配っている館内案内の日本語パンフレットには、この石碑に刻まれたフランス語の詩文の箇所が訳されて掲載されてある。しかしこれはフランス語原文とは異なっているのである。


案内パンフレットの日本語訳というのは、池田氏が碑文に書いた感動を証明するかのように、原文にあるはずの文字を削って書き換えて訳してある。つまり原文にある筈の「そういう場所のひとつなのである」の箇所がこのパンフレットでは削って消えているわけだ。ここを理解してないので、池田氏のような感動が起こるのであろうかなどと私は想像するより他はなかった。


案内パンフレット掲載のユゴーの詩文の日本語訳は次の通り。


写真は、ヴィクトル・ユゴー文学館で配られている訪問者案内パンプレット。同文学館の庭園にある金版に彫られたヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」の「ビエーヴル」の詩の日本語訳に相当すると思われる訳がヴィクトル・ユゴー文学記念館で配っているパンフレットの表紙に掲載されている。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「そう、私達の心を酔わせる、天に漂う、何かが息づいているのを感じる場所:子供の頃、愛し、夢見た場所、その穏やかな、尽きせぬ、深き美しさは、この地上の、人間のすべての悪を魂から忘却させ、昇華させる。」 


ヴィクトル・ユゴー 詩集「秋の木の葉」 <ビエーブル:


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写真はビエーブルのヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭園内の廃墟を模した塔。その手前に池田大作氏のつくらせた、ヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」の詩「ビエーブル」の一節を彫った金板が「石碑」としてたっている。


これをアップしたのが、下の写真。




ヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭園にその詩文が金版に彫られて立てられているが、その詩文に相当すると思われる箇所を以下に、ガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )と、同記念館の配る見学案内パンフレットの日本語訳文を掲載して比較して見てみる。


ヴィクトル・ユゴー文学記念館で日本人訪問者に配っている館内案内の日本語パンフレットには、この石碑に刻まれたフランス語の詩文の箇所が日本文に訳されてパンフレットには掲載されたようだが、しかしこれはフランス語原文の二箇所が訳されてないのである。


ヴィクトル・ユゴー文学館の庭園にある金版の詩文の引用箇所は、下の詩集の本文写真では右頁(789頁)上部のの6行である。



写真はヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」「ビエーヴル」の収まっているガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )の782-783頁である。


上掲載のガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )の783頁の詩文において、上から1行目の「un de ces lieux où」と3行目にある「un de ces lieux qu'」との箇所が日本語のパンフレットでは訳されず省かれている。この2箇所のレフレインが何故訳されてず削除されたのか?

この省略されてしまった箇所は詩における繰り返しの機能としても重要な箇所だ。しかもこのビエーヴルという場所の価値を決める大事な言葉である。これが訳されてないのは池田大作氏は知っているのであろうか?あるいはわざと日本語訳をこのように原文を削除して訳すことで、日本人訪問客へヴィクトル・ユゴー文学館の価値付けを高くしてみせたかったのであろうか?池田氏の感動したという詩はどんなテキストを読んでの感動であったのか。


この引用箇所は、ほぼ正確に金版に彫られたとみえるが、一箇所大事なものが削除されてしまった。それはこの本文テキストの6行目の最後にある感嘆符が池田氏の金版では省略されているのがわかる。


この詩全体の中でも感嘆符は頻繁に使用されていて、その感嘆符の意味は軽くはないはずだ。なぜならば池田大作氏自身がこの詩に感動したので詩を碑に刻むようにいったからだである。



(3)ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店


ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店は地上階より一階分だけ高くなっていて見晴らしがよい。北側の窓からは庭園が一望できる。西側にある入り口のガラス扉と南側にある窓からは周囲の低く開けた景観が遠望できる眺めの良い場所に建っている。


室内には茶色の小型のグランドピアノが置かれてあった。喫茶室の東奥にもう1つ広い部屋があってテーブルと椅子が置いてあるだけの殺風景な部屋であった。


私達は中庭に面した窓際のテーブルを前にしてすわった。


管理人のガイド氏(以下、ガイド氏と呼ぶ)は道路に面した東側にある正門が見える方を向いて座り、私はシャトーのある西の方を向いて座った。



写真はヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店で北側から撮影。入り口は西の右側の階段から入る。私たちの座ったのはこの窓側。ヴィクトル・ユゴー文学館本館のシャトーはこの喫茶店の右側隣に位置して建っている。


私は先日の感想を一言、話し始めた。「よかったですよ、青年部なのでしょうか?」


「ステェファン学芸員ですね。よく説明しようとみんな一生懸命に勉強しています」と答える。
「先日の訪問の時に日本の若い女性と来ていたフランス人青年は、訪問客ではなくて学会の青年部ですね」と私が質問する。


ガイド氏は、「そうです。学会員です。わかりましたか」と答えた。


「でも何故あの時に彼女は、いいところがあるから、いこーって、連れてきたの」などと、「私達の前で、不思議ですね」「彼女は学会人ですか?」わたしが質問した。


「いいえ、彼女は学会人ではありません」 「友達からここ(ヴィクトル・ユゴー文学館)を聞いたのでしょう。行ったらいいといわれていたのでしょう」と答えた。


彼女の父親は関西の人であるという。「研究者で、そのためにアメリカやフランスにきていた。その父親と幼い頃に一緒に来ているのです」といった。さきほどガイド氏が学会人だと明かした青年は、この女性の父親がフランスに滞在した時の大家さんの家族関係の人なのです」と、ガイド氏の話しは非常によく説明されていた。


しかし、ヴィクトル・ユゴー文学館に友達から行ったらいいといわれて来た女性なのだから、とうぜんのことユゴー文学館には初訪問であったということか?学会人ではないこの女性の素性をガイド氏は大変に詳しいのはなぜか。


フランス創価学会の男子部員が、池田大作先生(ガイド氏は「先生」と呼んだ)の建てたヴィクトル・ユゴー文学館に、学会員でない日本の若い女性に連れられてやって来たというガイド氏の説明になるが、それはどこか理解に困難な不思議な話しに思われた。 




(4)入館検問


入り口に2人の青年がいた。2人は、ヴィクトル・ユゴー文学記念館の入館の切符の販売を担当しているのであったが、それだけではなかった。


「あなたたちは創価学会の青年部でしょう?」「ここには学会活動で来ているのですか?」「そこのベットはなぜあるのですか?」などと率直に聞いてみたのである。


中心者格の背の高い黒人の青年は躊躇していたがまもなく答えた。「ベットは遠方から活動でこのユゴー文学館にやってくる者が休むためなのです」といった。彼はパリ南郊外のアントニー市から創価学会の青年部の活動で来ているのだといった。





ヴィクトル・ユゴーが何度か家族と訪れた場所だが建物は当時のものではない。写真は南側からの撮影で雪が勾配と遠近感を消している。


ビエーブルの川はここではまだ流れは小さく城の前面で蛇行しながら左から右へ西から東へと流れている。隣町のベリエール市内を抜けてアントニー市付近まで流れ、方向を北に取りながら地下に流れをかえてパリ市内のイタリア広場を通過して現在はオーステリッツ駅とノートルダム寺院あたりの土管口からそれぞれセーヌ川に流れ込んでいる。

ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店でガイド氏に私が質問した。それは入館案内所の切符売り場にはベットが置いてあったことが不思議に思えたからであった。一人用の小さなもので奥の閉ざされた窓の方に寄せてある。切符売り場のテーブルの背後にはこのベットを隠すかのように低い衝立が置かれてあった。

「なぜベットが一人分しかないのですか?」と聞いた。ユゴー本館の城(シャトー)の地下には宿泊施設がつくられている。活動が忙しくなると使うのだと説明してくれた。

私はその後一週間して、寒い初春のある日曜日にユゴー文学館を再訪した。切符売り場を担当していた顔中ニキビだらけの青年は私が来ていることに気が付かなかった。戸外の寒さを避けてかガラス戸の内に避難していた。私はそのガラスを指で軽く叩いて合図した。

寒そうにして、ワイシャツの上にカーディガンを重ねた青年が顔一面を赤黒くなったニキビに埋めて私の前に出てきた。

私は、入場料の金額を知っていたが改めて聞いた。青年は1人であった。先週の青年ではない。何人かが交代で、土曜、日曜の2日間の週末だけ開館するユゴー文学館の活動をしているらしい。彼等は選ばれたフランス創価学会の男子部員なのであろう。

このかっての門番小屋のような入館検問の建物は入り口の扉の上部が格子で枠が白いペンキで塗ってあり小さないくつもの四角いガラスが美しく反射している。


門番小屋からは、城がある本館の方が見渡せた。広い庭園はやや南に傾斜しながら広がっている。景観は途中から急な崖になって30メートル下にビエーブルの川が右から左に細くゆっくりと東に流れていた。
ヴィクトル・ユゴー文学記念館は少々不便な所にあり自動車で乗り付ける訪問者もいる。写真は男子部員が入場券の販売をしているところ、正面の庭の奥が入場者の駐車場になっている。


ニキビのある青年は少々不機嫌な様子で、「入るのか」と一言いった。私が思案していると、「入場料は4ユーロ(約480円)だ、庭だけならば2ユーロだ」という。


そして、「ぜんぜん高くない」「パリの美術館がいくらするのかあなたは知っているのか」と、青年はパリの美術館の値段は示さずに「それに比べたらずっと安いのだ」といった。


彼は私を美術館とはおよそ縁の遠い者のように見立てたようだ。それにしてもパリのオルセー美術館やルーブル美術館などとは値段を比較に出すべき筋のものではないだろうになどと思いながら、私の脳裏にはこの男性はどこから来たのだろうと、ふと疑問がよこぎっていた。


フランス各地の美術館や博物館を訪問して入り口の係員から「入場料がよそよりも、こっちのほうが安い」などという宣伝文句などはかって私は聞いたことがなかったので驚いた。この一般市民に公開されたヴィクトル・ユゴー文学館はこのニキビの男性の気に入りなのであることがわかった。


「それじゃ館内を見せてください」というと、この男性は「少し待って」といって、次に「寒いから」といって中に入り、私も入るように招き入れた。


ユゴー文学館の庭には3月の春を告げるスイセンが花を咲かせたばかりで陽光はあったがまだ弱く寒かった。
ヴィクトル・ユゴー文学記念館、写真は北側からで入り口に電気がついている。

ニキビの青年は、誰かに電話をしている。料金のことではなくて、なにやら館内訪問のことで確認しているらしい。私は青年の前に立ていたが、この小さな建物の内部をあちこち眺めることにした。


青年が座った前のテーブルの上に電話と小さな金庫箱が置かれてあった。部屋は一つだけだ。カーテンのつい立が真ん中にある。その左奥に1人用の簡易ベットが毛布を被って置かれてあった。上着が脱ぎ捨ててあったのが見えた。


青年は突然の訪問客に不意に起こされて、少し機嫌が良くなかったのかもしれない。


青年は電話をし続けている。彼の前のテーブルの上には館内案内書の英語版があった。私はこれに手を伸ばして取って眺め始めた。青年は狭い部屋の中で電話の会話を聞かれまいとしているのか、受話器を持ったまま急に背中を私の方に向け直した。


しばらくして、受話器を離してから、私に、「何語ができるのか」と聞いた。わたしは「フランス語、英語・・・・・」と答えた。わざと日本語とはいわなかった。いえば先週に会っているガイド氏が案内役で出てくるのがわかっているからである。


館内は案内付きで自由見学は禁止されていて好きなだけ見るというわけにはいかない。再訪したのもその理由によるが、またわからない疑問が湧き出したせいでもある。


電話の向こうで話しているこの青年の相手は、明らかにユゴー文学館のガイド氏であることが想像できた。


また何かを電話で話している。そして今度の青年の質問は、「あなたはどこの国の人なのか」というものであった。これには少しは驚いた。が、私は日本人であるとは答えなかった。答える必要はないと思った。再び、「何人か」と聞いてくる。入館検問はかなり厳しいのだ。


青年はまた受話器を持ち直して電話の相手と話し始めた。その会話の中には前回に案内してもらった学芸員の「ステェファン」とか、ガイド氏の名前とかの聞き覚えのある名前があった。


そしてこの長い検問の後で、やっと私は青年からの最終判決がくだされたのである。「あなたはここには前に来たことがある」、「日本人でしょう。ガイドを知っていますね」というものであった。


私は兜を脱いで、「そうだ」と答えるのみであった。しばらくすると、ヴィクトル・ユゴー文学館のシャトーのある庭の奥の方から門番の検問小屋に向って小砂利の敷かれた小道の上をゆっくりと歩いてくる1人の日本人の姿がガラス戸の奥に写った。 



(5) 池田大作の魂が宿る山と渓谷


「あの山には池田先生の魂が宿っているのです」と私の友人が話したのには驚いた。。彼は小型自動車をベルサイユから東へ向う県道を運転していた。窓の前方に展開する美しい山野の風景を指差しながら助手席にいる私に説明した。

「左に見えてきたシャトーが池田先生のヴィクトル・ユゴー文学館」。ビエーブル渓谷が山を背負った南向きの高台の斜面に冬の低い日差しをうけて大きな角ばった建造物が薄いバラ色に静かにたたずんでいた。「この辺の景観は八王子の創価大学の風景にとても似ている」と彼はいった。


私たちは前方奥の隣町ベリエール・ル・ビュッソンを目指していた。「創価大学パリ分校のあった所だよ」と教えてくれた。日本の創価大学を知らない私は、「高圧線を走らせる鉄塔がこんなに建っているのかい」などと質問する。

私の友人は早大の出身であったがこのパリ分校には特に関心があったようだ。彼は仕事が終わると、わざわざこのパリ分校のあった渓谷を走る細い旧道を選んでヴィクトル・ユゴー文学記念館の前を抜けてベルサイユ方面の自宅に帰るのだといった。


創価学会員の彼はパリ分校の設立計画があった当時を偲んでいるらしい。彼の心の中にはたしかに池田大作への思慕の感情が宿っているように見えた。とても真剣なのだ。


私は後日、彼に「池田の魂が宿っているといったのはどういうことか」と聞いてみた。



「創価大学の海外分校は、アメリカが中心になってしまい、パリ分校は廃校になってしまった」と淋しそうに答えた。その次に「池田先生が精魂を傾けて若い青年たちを鍛えようとされた場所なのです」と心を持ち直したように早口で語った。

ヴィクトル・ユゴー文学記念館のあるビエーブル市の東隣り町のベリエール・ビュッソン市には確かに創価大学パリ分校が存在していた。しかしフランスでの創価学会のセクト問題が荒れ狂う中でいつの間にかパリ分校は封鎖され数年前に売却されていた。


その存在は多くの人々の記憶からも消えようとしている。このヴィクトル・ユゴー文学記念館も、フランスに於けるセクトの異名であるのか創価学会の名前を捨てて、創価学会とは無関係な文化団体としての美術館の装いをみせているようだ。

世界的に有名なフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの名前を冠していればそれだけでなにか公的な美術館になってしまいそうな不思議さがある。


しかしその公共的な装いの響きとは別に創価学会という宗教団体の人々によって運営され管理されているというのは何かしっくりとしないものが残るのである。

ヴィクトル・ユゴーを隠れ蓑にして創価学会を宣揚するための活動をしているとなれば、これはフランスでは創価学会は隠れ蓑をつかっているということにもなる。


問題は、はたしてヴィクトル・ユゴー文学記念館というのはフランスの創価学会なのかということだった。

少なくとも一般のフランス人は創価学会だと思ってここを訪問する人は少ないのではないだろうか。みんなそれを知らないで来ているのではないだろうか。ヴィクトル・ユゴー文学記念館は一般に開かれた公共的な美術館の様相を呈しているが、実は創価学会の隠れ蓑なのではないかと確信するようになっていた。

(つづく)