(パリ=飛田正夫 日本時間;13/04/2017-8:47:13)12日深夜の国営ラジオ・フランス・アンフォなどフランスのメディアによると黒崎愛海(なるみ)さんがブザンソン大学の学生寮から姿を消した2016年12月4日の夜にチリ人のニコラス・ゼペラ・コントレラス(Nicolas Zepeda Contreras)26歳は一緒に鳴海さんといたことをチリ裁判所は証言したと報道した。しかし青年は殺害したことを否定している。フランスの警察はブザンソンとドールとの間に鳴海さんの死体は埋められていると確信している。死体捜査の専門ら80人の警察とヘリコプターや捜査犬などをつかて再度詳しく調べると宣言。黒崎愛海さんの遺体捜査が4月10日から再開された。チリ裁判所は失踪の夜に容疑者と鳴海さんとは一緒だったことを証言していて、殺害のあった12月4日の夜に泣き叫ぶ声やドアにぶつかる騒音が聞こえたと同じ学生寮に住む人たちは証言していた。このことに関してはコントレラスは否定してなく、自分もその音を聞いたがそれは隣の住人の私的なものであったのであり、その日以来、成海さんを見ていないと言っているという。仏警察はチリ側に対しコントレラスの一時送検を要求していたがチリ裁判所は証拠不十分なためにそれは出来ないと断っている。
2017年4月13日木曜日
2017年4月11日火曜日
マリーヌ・ル・ペン アウシュビッツ収容所へのユダヤ人一切検挙には仏国は責任なしと逸脱発言
(パリ=飛田正夫 日本時間;11/04/2017-10:25:13)二週間後の仏大統領選挙第一次投票を前にして極右派のマリーヌ・ル・ペンFN候補は1942年のヴェルディブ(Vél’ d’Hiv)の一切検挙の責任はないと9日のラジオ・テレビ・新聞社共催番組グランジュリー(Grand Jury)に出演して威厳のない逸脱発言をした。もっかの世論調査では11人の候補者中でトップだがこの発言で変化がでそうだ。フランスがナチスドイツ占領下にユダヤ人をアウシュビッツ収容所へと輸送した犯罪に関してはジャック・シラク大統領が1995年7月に「その時にフランスは取り返しのつかないことをしてしまった」とこれを認めている。これには当時のラファランもジョスパンも誰もが明快にフランス政府の過ちを承認したのであったとルモンド紙は述べている。フランソワ・オランド仏大統領は「フランスがフランスで犯した犯罪である」とこれを告発している。マリーヌ・ル・ペンはそれはナチス傀儡のヴィシー政権がやったのでフランスは戦争責任を反省する必要はないと発言したわけだ。彼女は父親のル・ペンと同様にその正体を露見させたのだとして、他の仏大統領選挙候補者からは格好の批判の的になっている。
2013年6月19日水曜日
フランス初の「バル・ドゥ・マルヌ県立バラ園」を訪問
「バル・ドゥ・マルヌ県立バラ園」を訪問した。バラ園はパリ南郊外の渓谷を見下ろすライレ・ローズ市の丘の上にあった。入場券が必要で大人3ユーロ。行列ができる混みようで20分待った。待ちながら順番を確保しつつ周囲を眺めているとなんともアジア系の人々が多い。私もそうだが20%は確実にいる。この周辺にはアジア系の人々が多く住んでいるのかもしれない。そして結婚式の後でやって来たと思われるアジア人カップルが数組いて写真を撮っていた。
同バラ園はフランス最初のもので1918年に開園したがその基は19世紀末(1894年)にJules Gravereauxが築いている。この「バル・ドゥ・マルヌ県のバラ園」1.7haには12000本、3300種のバラがある。外国のバラ、インド・中国・ペルシャ、日本のもあった。フランスのバラ。現代のバラ。野生のバラ。昔のバラとオリエントのバラを掛け合せたものもある。またコレクションされたバラ、マルメゾンのバラなどもある。歴史的人物の名前を冠したバラ。18世紀までまだ知られてなかった旧大陸のバラのコレクション(Le jardin des roses galliques)もあった。
私の特に気に入ったのは東側と西側の塀をよじ登るようにして植えられた背の高い、中世の庭園や宗教画に出てきそうなバラであった。入り口から右回りに見るか左回りにするかで趣向が変わるだろう。右回りが面白いと思ったのは、東から西へ、そして古いバラから現代のバラへという感じでみるほうが自然だと思ったからだ。
このバラ園は丘の上にありパリの南郊外が見えると書いたが何故こんな高所にバラ園があるのかはよくわからなかった。バラ園入り口の道路脇に地下の水路を監視する「見張り小屋」が白い石で建てられていた。わたしはこれをダンフェル・ロシュロー付近でも見て知っていた。オルリー近くのウィズス辺りで良い水が出たのでこれを汲みあげてビィエーブル渓谷の右岸の丘を利用してパリへと走る水路を作った。このライレ・ローズの「地下水路監視の小屋」はその時代に作られたもので、この丘を走っていたものだと理解した。
幾筋もの直線の小道と一種迷路のラビラントを緑のツゲの植え込み木が形ちどっていて、その中にバラが植わっている。ツゲの青臭い匂いがバラの香りを引き立たせていることに気がつくのにはそう時間はかからなかった。バラの花の香りが素晴らしいことを初めて知ったことはここに来た大きな収穫であった。
私の特に気に入ったのは東側と西側の塀をよじ登るようにして植えられた背の高い、中世の庭園や宗教画に出てきそうなバラであった。入り口から右回りに見るか左回りにするかで趣向が変わるだろう。右回りが面白いと思ったのは、東から西へ、そして古いバラから現代のバラへという感じでみるほうが自然だと思ったからだ。
このバラ園は丘の上にありパリの南郊外が見えると書いたが何故こんな高所にバラ園があるのかはよくわからなかった。バラ園入り口の道路脇に地下の水路を監視する「見張り小屋」が白い石で建てられていた。わたしはこれをダンフェル・ロシュロー付近でも見て知っていた。オルリー近くのウィズス辺りで良い水が出たのでこれを汲みあげてビィエーブル渓谷の右岸の丘を利用してパリへと走る水路を作った。このライレ・ローズの「地下水路監視の小屋」はその時代に作られたもので、この丘を走っていたものだと理解した。
幾筋もの直線の小道と一種迷路のラビラントを緑のツゲの植え込み木が形ちどっていて、その中にバラが植わっている。ツゲの青臭い匂いがバラの香りを引き立たせていることに気がつくのにはそう時間はかからなかった。バラの花の香りが素晴らしいことを初めて知ったことはここに来た大きな収穫であった。
2013年6月12日水曜日
崔の目は二つはかけられずという事
今日の朝、駐車しておいた車のタイヤに釘が刺さっていた。昨夜すこし心配な気がして中に入れようかとはいったんは口にだしていたのだが駐車場についに入れなかった。車のタイヤの空気が抜かれたり、釘を刺されたりするのはこれが初めてではないので大きな驚きではない。こういう場合にはなんとなく前触れというか予感がするのはどうしてなのか?
しかし予兆を感じる場合に十分に心することで、対処が変わることがあり得ることがわかった。これも不思議な発見であり不幸中の幸いというところだが,更にそれ以上の僥倖にもなり得る。いわゆる災い転じて福となるという次元のものに変化するとうことだ。
最近は、何か悪いことが起こる場合にはその知らせを感じるのではなくて、事前に考えるようになったということである。だから時には特に厄介である。
できるだけ悪所・悪人に近づかないということであるが、これは何処が悪所で誰が悪人なのかが見えない為にどうにもならない所がある。そうではなくて、積極的にこれを避けないで心して対処することも大事であるということだ。これは極めて簡単ではないが心して対処することで結果は大きく変わってくることになる。我々は見えない世界の予兆に対し、それを現実世界の見える世界に引き寄せて乗り越えてゆることができるということなのである。
そういう中でこそ、しばしばいわれる崔の目は二つはかけられずという言葉が活きてくるのだと考える。
どんな事件にも大なり小なりの予兆があり前兆がありそれを予感として感じるということだ。しかしそれが何の知らせなのかは事前には明快にはわからないのである。だから事件を未然に防げるかというとそれがうまくはいかない。
しかし予兆を感じる場合に十分に心することで、対処が変わることがあり得ることがわかった。これも不思議な発見であり不幸中の幸いというところだが,更にそれ以上の僥倖にもなり得る。いわゆる災い転じて福となるという次元のものに変化するとうことだ。
最近は、何か悪いことが起こる場合にはその知らせを感じるのではなくて、事前に考えるようになったということである。だから時には特に厄介である。
できるだけ悪所・悪人に近づかないということであるが、これは何処が悪所で誰が悪人なのかが見えない為にどうにもならない所がある。そうではなくて、積極的にこれを避けないで心して対処することも大事であるということだ。これは極めて簡単ではないが心して対処することで結果は大きく変わってくることになる。我々は見えない世界の予兆に対し、それを現実世界の見える世界に引き寄せて乗り越えてゆることができるということなのである。
そういう中でこそ、しばしばいわれる崔の目は二つはかけられずという言葉が活きてくるのだと考える。
ニュース、フランス、ヨーロッパ、社会、宗教、移民、難民、不平等、人権、
【フランス・旅と食】,
【私のフランス】,
【仏・パリのメモ】
2013年6月5日水曜日
パリのメトロの紛失物が発見 警官は盗難届け申告を勧めた
2週間前にパリのオペラで地下鉄を下車するときに忘れ物をしてしまった。カバンの中には現金が2万円ほどと書類が入っていたし身分証明書・免許証、更には電車のパスやカメラが入っていた。地下鉄の扉が閉まると同時に気が付いた時には遅かった。急いで乗車券売り場に行き事情を話すと、メトロの乗務員に連絡し車両の中を調べてくれるという。
そういうことがフランスで可能なのか私は今まで知らなかった。しばらくして後部車両の座席を探したが何もそれらしきものはなかったと連絡がはいった。それだけでも私はフランス人がこれまでするとは考えていなかったので感謝している。
それに驚いてか私は落ち着きを取り戻した。とにかく諦めることにした。最近はどういうわけかある言葉をくり返すことが口癖になっていた。それは、「下がるは上がるため」という短い文句である。
オランド仏大統領は年末までに落ち続けている失業曲線を盛り返すと頑張っている。私は落ちる所まで行けばあとは上がる他はないのだから当然そうなるのだろうと楽観視していたのである。しかし年末までにという期限を設けて闘うことの意識をよく理解していなかった。何でもいつか時がくれば自然に良くなるというのは間違えなのである。
私はパリの最寄の警察へ行って忘れ物届けをした。若い女性の警官はなにか身分を証明するパスポートとか電気の領収書のようなものが必要だといった。忘れ物は直ぐには出てこないので1週間は待つ必要がある。届出は家の近くの警察署でもできるのでそこでするようにと言ってくれた。
2週間が過ぎてからパリの紛失物取り扱い所から手紙がきた。予想してなかったことでうれしかった。行ってみると身分証明書と運転免許証などの書類が全部あった。しかし現金やカメラはなかった。それでも私は十分に満足であった。係員から拾得物が渡された。係員はどこで見つかったのかはわからない。見つけた人もここに持ってきた人も匿名を希望しているとのことであった。そして私が身分証明書の再申請をしてないかと質問してきた。警察からはしばらく待つようにとの話しがあったのでしてないと答える。係員は紛失物申請をした派出所に再度出向き見つかったことを報告するように指示した。
再度最寄の派出所に出向くと長い時間待った後で私を個室に呼びいれた。警察官は現金などが紛失しているので盗難届けを申告するべきだとしてまた調書を書き始めた。わたしはこの警察の正義感と公正な態度にまったく関心してしまった。もうすっかり満足していた私は、こういうときにやはり自分は日本人なのだと思ってしまう。
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パリ,
社会
2013年6月1日土曜日
失業の仏独格差を比較し仏メディアが論じる時
しばしばフランスのメディアはドイツが雇用率が高くフランスは失業が増大していることを比較して論じる場合がある。しかしドイツはフランスと異なり最低賃金制度がない為に雇用は膨らむが低賃金で働く人々が生活が苦しいことを見逃している。今回の国勢調査でわかったようにドイツの移民が減少していたのは、移民がドイツの賃金制度に魅力を感じなくなって出て行ってしまったのだろう。
ドイツでは経済的な格差が拡大しているだけでなく社会的な人権の格差も大きい。この点を指摘しないでこれまでの独仏間の失業率を同一価値観の物差しの上で比較してきた仏メディアの責任は大きい。
フランスには人権を守る最低賃金制度があり、ドイツのようにこれをなくしてしまえば失業は減るだけでなく労働者の権利が縮小化するだろう。しかしフランスはそれをしない。失業率の増大を理由に労働賃金の自由市場化を期待する声も高まってきそうだが、今の政府はこれに反対するだろう。
パリ郊外で乗車拒否のバスを追跡
5月30日、私はパリ北郊外の航空ショーで有名なブ-ルジュに行った。バスを雨みぞれの中待っていた。私が手を揚げて合図したにも関わらず乗車拒否されてしまった。私は失望のまま立っていると「郊外青年」が「あのバスですよ。あなたの乗るバスでした」と言った。
私はここに来たのは初めてで、どのバスが何処に行くのか皆目検討がつかなかった。私に声をかけた青年は、帽子を被りイヤホオーンを耳にしたアラブ系の青年で停留所に雷雨を遁れていた。少し前に私の行き先を話して乗るべきバスの番号を訪ねていたためだ。
私はここに来たのは初めてで、どのバスが何処に行くのか皆目検討がつかなかった。私に声をかけた青年は、帽子を被りイヤホオーンを耳にしたアラブ系の青年で停留所に雷雨を遁れていた。少し前に私の行き先を話して乗るべきバスの番号を訪ねていたためだ。
まもなく次に来たバスに行き先を聞くと、「そこには行かない」と言い、続けて「前のバスがあなたを乗車拒否したのを見た」「追いかけてやる」と若い女性運転手は意気込んで話した。すぐに前のバスを追跡し始めた。2つ目の停留所で追いつくやクラクションを何度も大きく鳴らし合図したのである。私はこれにひどく感動もしたが驚いた。
2012年4月6日金曜日
ジャン・ジャック・ルソー生誕300年、シャンベリーのシャルメットを訪ねる
今年はジャン・ジャック・ルソーの生誕300年記念にあたる。ジュネーブとグルノーブルの間にあるシャンベリーの町にはルソーの絵が旗になって掲げられていた。10年ぐらい前にもここを訪れているが今回は特別だと思いながらシャルメットを訪問する。ルソーは社会と個人を考える場合にどうしても避けることができない思想家で社会学にも大きな位置を占めている。しかし私はもっとルソーを宗教的な方向から考えてきたのだと思う。
2012年2月11日土曜日
マルセーユのル・コルビュジェの現代建築、シテ・ラディユが火災
9日から10日にかけてマルセーユのル・コルビュジェ(Le Corbusier)の現代建築で有名なラディユーズ(Ville radieuse)のシテが火災になった。この火災で被害を避け安全のために建物に住む1600人ほどの住民が避難させられた。
ユーチューブ掲載のBFMTVによると、334個ある各アパートは100平米あり、内部が2階続きになっているものでデプレックスと呼ばれる。火災は13時30分ごろに、この2階から起こりすぐに上部の階へと移っていった。10個ほどのアパートが全焼した。ル・コルビュジェ建築の構造からくる避難の困難性も指摘されたが、消防隊員からは子供たちも安全であると伝えられている。
ユーチューブ掲載のBFMTVによると、334個ある各アパートは100平米あり、内部が2階続きになっているものでデプレックスと呼ばれる。火災は13時30分ごろに、この2階から起こりすぐに上部の階へと移っていった。10個ほどのアパートが全焼した。ル・コルビュジェ建築の構造からくる避難の困難性も指摘されたが、消防隊員からは子供たちも安全であると伝えられている。
2011年11月11日金曜日
パリ最古のパッサージュの一つ、初のガス灯の点いたモンマルト大通り「パノラマ」
| パリで最古のパッサージュの一つに「パノラマのパッサージュ」(Le passage des Panoramas)がある。。ここは1817年12月、パリで最初にガス灯が燈されたところでもある。パリ2区の証券取引所と10区のグレヴァン美術館との間にあり、1800年にルクセンブルグ公爵シャルル・フランソワ・ド・モンモランシー男爵によっての住居の庭の跡地を分割したその一部をジェムス・タイヤーが買ってグリザー(V.Grisart)にパッサージュを作らせたものだ。パッサージュとパノラマの関係については、パッサージュを路地と訳していることには少し違和感があるにしても、なんといっても、今でも目の覚めるようなその鋭い分析はヴォルター・ベンヤミンが描いた、「パり-十九世紀の首都 1939」(ヴォルター・ベンヤミン著作集6 ボードレール 晶文社1975)である。 |
2011年11月4日金曜日
ロマ人、「旅の人々les gens des voyages 」のこと、・・・偽装警察に襲われたキャンプ訪問
「トラベラーズ」というのはフランスではロマ人のことでもあるが、それとは別に「旅の人々les gens des voyages 」という人のことでもあるようだ。
2011年10月18日火曜日
ポンピドー・センターと現代美術 カァマユー(Camaïeu)
マレ地区のフランソワ・ミロン通り、中世とルネサッンス建築
2011年10月3日月曜日
オルセー美術館、三階が修復工事、ゴッホやナビ派の絵画に日本画の「引き目カギ鼻」を発見
| パリ・オルセー美術館 |
オルセー美術館の三階が修復工事で2011年末ごろまで予定されていて、展示場が変更されている。三階にあった印象派の絵とナビ派や後期印象派の絵が二階と一階に移されている。オルセー美術館には何度も来ているが今回の工事のおかげで思わぬ発見があった。ポール・セリュジエ(1864-1927)の作品「ブルターニュの健闘」もヴァンサン・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)の作品「アルルのダンス・ホール」の絵も、そこに描かれた女性たちの目は西洋画の女性の目の描き方ではないことを見つけたのである。その絵に描かれた彼女たちをじっと見ていたら、目と鼻が例の日本の浮世絵の「引き目カギ鼻」で描かれている。これを見て私は、まるで新発見の心地で一人唸ってしまった。この二つの絵をよく見ると、さらに3つ4つの驚くべき発見があった。
2011年4月20日水曜日
セラノの作品「小便キリスト」損傷で 南仏アヴィニョンのランベール美術館が話題
南仏アヴィニョンの町の18世紀の館がランベール基金の現代美術館になっていて4月17日に2枚の作品が損傷を受けた。作品は写真家のアンドレ・セラノ(Andrès Serrano)氏の「小便キリスト」という題の作品で磔刑のキリストが小便の中にいるという表現の作品である。19日には同美術館は厳重な警戒の下に開館が再開されている。「パリジィアン・今日のフランス fr.」が興味深いインタビューをしているので一部紹介する。
2011年3月24日木曜日
【ルポ 後編】ヴィクトル・ユゴー文学記念館で仏創価学会の青年がボランティア活動なのか?
後編(1) ルポ ヴィクトル・ユゴー文学記念館
( 「ルポ前編」ビエーヴル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館 )
(1)学芸員ステファンの疑い
フランスのビエーブルにあるヴィクトル・ユゴー文学館の敷地内にある喫茶店で訪問客にお茶の給仕をしていた学芸員ステファン氏に会った。彼は喫茶店の厨房から上気した赤い顔で私の前に突然に現れ出た。そして「少し変だ、何度もここに来るなんて、もう今月で三回目だ」とかなり大きな声で私に唐突にいった。そして「あなたは、何度も同じものを見るよりは、パリのボージュ広場のユゴー記念館や、ノルマンディーのビルキェー(娘レオポルディーンヌの家がユゴー美術館になっている)などに行くべきではないのか」といった。
「図書館で本を調べたほうがよい」、「ユゴーの著作を研究したほうがよい、来る必要はない」と続けて話した。私の訪問に酷く懐疑を抱いているのがわかった。それは何故なのか。

上ノルマンディーの首都ルーアンのセーヌ川下流右岸にあるビルキェーのヴィクトル・ユゴー美術館。庭の中央にはVHの彼の頭文字が見える。レンガや迫り出し窓の多いノルマンディー建築。この建物の前をセーヌ川が流れている。

ヴィクトル・ユゴーの娘レオポルディーンヌが若くして水死した辺り。海の水が逆流してセーヌ川を遡行するマスカラ現象で溺れたといわれる。伏流が起こり水蒸気が立ちこめる危険なものだ。ビルキェーのヴィクトル・ユゴー美術館は写真右奥のセーヌ岸右岸にある。
( 「ルポ前編」ビエーヴル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館 )
(1)学芸員ステファンの疑い
フランスのビエーブルにあるヴィクトル・ユゴー文学館の敷地内にある喫茶店で訪問客にお茶の給仕をしていた学芸員ステファン氏に会った。彼は喫茶店の厨房から上気した赤い顔で私の前に突然に現れ出た。そして「少し変だ、何度もここに来るなんて、もう今月で三回目だ」とかなり大きな声で私に唐突にいった。そして「あなたは、何度も同じものを見るよりは、パリのボージュ広場のユゴー記念館や、ノルマンディーのビルキェー(娘レオポルディーンヌの家がユゴー美術館になっている)などに行くべきではないのか」といった。
「図書館で本を調べたほうがよい」、「ユゴーの著作を研究したほうがよい、来る必要はない」と続けて話した。私の訪問に酷く懐疑を抱いているのがわかった。それは何故なのか。

上ノルマンディーの首都ルーアンのセーヌ川下流右岸にあるビルキェーのヴィクトル・ユゴー美術館。庭の中央にはVHの彼の頭文字が見える。レンガや迫り出し窓の多いノルマンディー建築。この建物の前をセーヌ川が流れている。

ヴィクトル・ユゴーの娘レオポルディーンヌが若くして水死した辺り。海の水が逆流してセーヌ川を遡行するマスカラ現象で溺れたといわれる。伏流が起こり水蒸気が立ちこめる危険なものだ。ビルキェーのヴィクトル・ユゴー美術館は写真右奥のセーヌ岸右岸にある。
2011年2月17日木曜日
2011年2月15日火曜日
「ルポ」ビエーヴル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館
2010年3月13日、初めてこのヴィクトル・ユゴー文学館をわたしは一人で訪ねた。わたしの友人がこのユゴーのシャトーの前を仕事の帰りにわざわざ寄り道して通るのだとある時に話していた。この友人によるとこの辺の山には創価学会の池田大作会長の魂が宿っているのだと真剣になって話していたのがひどく気になっていた。彼はこの風景が創価学大学のある八王子の山麓と似ているのだと説明している。
わたしが訪問した時にはルーマニア人の婦人がベンツを同館の庭園内の駐車場に乗りつけていた。婦人はベルサイユ宮殿近くに住んでいるといって大変に愛想がよい。「大変よかった、次は夫を連れてきたい」と上手なフランス語で話した。婦人はルーマニア人であった。
わたしが庭園の中心にある本館のシャトーに入った時にはこの婦人一人が訪問客でステファンという学芸員がシャトー内の案内をすでに始めていた。

冬が明けて、パリの西近郊のビエーブル渓谷にある「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」の開館を待った。連載ルポの第1回は「フランス創価学会青年部との出会い」。ここには創価学会員が特に男女青年部が活躍していた。
わたしは、晴れやかにドレスアップした接待の女性達がいる玄関のホールに入り入場券を渡した。半券が返されて、「何語がわかりますか」とフランス語で質問された。「フランス語なら案内が始まったばかりなので、よろしければ、一緒にどうぞ」といわれ、学芸員のステファン氏が説明しているユゴーの若い頃の作品『死刑囚最後の日』などが展示された南東に窓の向いた部屋へ案内された。
するとわたしの直ぐ後からジーパンにジャンバー姿の体格のガッチリした青年が入ってきた。大きなバックを肩から斜めにさげている。青年も訪問客らしい。
しかし、この青年が単なる訪問者ではないことに気がつくのにはそれほど時間はかからなかった。どうもこのフランス人の男性は日本から来たばかりだという若い娘さんによってここに連れられてきたという設定なのだ。
が、これがばれてしまった。この青年は創価学会の青年部でわたしを監視するためについてきていると直感した。一緒に来た若い日本の女性はこの男性と一緒に見学をしないのはフランス語がわからないという設定なのだろう。
訪問者らしきこの日本から来たばかりだという若い日本人女性を案内していた管理人の日本人男性は、学芸員の案内する私たちのグループを前に後ろにすれ違いながらシャトー内を見学していた。
「いいところがあるから、いこーって、連れてきたの」と、彼女はどこの美術館でもあるような、訪問の最後の部屋などに設けられてある記念品や絵葉書の並ぶブティク・コーナーで、そこに置かれた筆記帳を前にして、私の方を見て宣言するように呟いた。
わたしはこの女性を知らなかったし、それでわたしが創価学会員ではないと言い返す必要もないと考えて答えずに黙っていた。
「連れてきた」という男性は、先ほど私の後から入ってきた人で彼女の発した日本語がわからないのであろう。記念品の本や書籍などをいくつか手際よく選んで、管理人のガイド氏にお金を払って品物を彼女に渡した。少しへんだ。が、どうもプレゼントらしい。
若い女性は何気なく質問してきた。「フランスには長いのですか?」「フランスで暮らすのはどうですか?」と、挨拶のような質問であった。
私は、「今のフランスでは仕事がないと難しい。滞在許可は簡単には取れないから」と短く答えた。
管理人のガイド氏はお金でも計算しているのかテーブルの上に置かれた小さな金庫箱を前に首を垂れたままじっとして私たちの会話に耳を傾けていたようだった。
私は彼の方に顔を向けてからこの女性に「ヴィクトル・ユゴーを食べなければね」と続けて答えた。
管理人のガイド氏は反射的に「ヴィクトル・ユゴーを食べる?」と、私のいった言葉を低く口ごもって繰り返し、一瞬だが顔を私の方に向けたが、また下を向いてそのまま黙ってしまった。
青年とこの二十歳前後の女性はフランス語で話していた。来たばかりにしてはフランス語がかなりうますぎる。
私は翌週に再びビエーブル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館を訪問した。同館は土日の午後にしか開館されてない。今回は館内の訪問ではなくて管理人のガイド氏に話を聞くためであった。
ユゴー文学館の敷地には本館のシャトーの他に北側に道路に沿って管理人宅があり南側にはビエーブル渓谷を流れる川岸から30メートルほどの高台に同館の運営する喫茶店がそれぞれ別棟で建っていた。
(2)石と金板の「石碑」 詩集「秋の木の葉」の詩「ビエーブル」
ヴィクトル・ユゴー文学館は日本人客が来ると管理人のガイド氏が館内のガイドをしている。この方に館内の案内を二回ほどしていただいた。
一度は他に日本人客がいなかったので私一人が聞き手だった。二度目は若い夫婦の日本人といっしょで、男性はプラズマ発電という難しそうな研究をされている研究者であった。エッソンヌ県に二年ほど住んでいてあと一年ほどフランスには滞在する予定だとガイド氏との話しでわかった。ガイド氏はその研究所がどこにあるのかを知っているといった。
若い女性の方は奥さんのようだ。今は「草刈が、わたしの仕事なのです」といったあとで、「おくさんはどんな料理をつくるのですか」とガイド氏が切り出した。「自分はフランス料理を勉強していたのです」とも話す。
わたしは「今回のガイドは、先日初めて案内していただいた時とまるで違っていて、大変に立派なものでありました」と二人の前でいってみせる。続けて、「以前にステファン氏の説明を聞いたが、それよりも、ガイド氏の方がはるかに素晴らしいと思う」と感想を述べた。二人の若い夫婦は私の言葉にうなずいたようだ。
これでは何だか私がガイドと釣るっているみたいにも二人には見える。そうではないことを示すために、私はガイド氏の説明に時々なにかコメントをしたり質問をしたりしなければならなくなった。そうでないと私も創価学会の青年部になってしまうからだ。
「ユゴーが亡命中のグルノゼー島にも婦人だけでなく愛人のジュリエットも連れていったのですか?」とか、このビエーブル市の隣町のジョイ・アン・ジョザスの丘の上にはジュリエットのためにユゴーが借りた家があるが、そこにもこのユゴーの「秋の木の葉」の詩集に収められた詩の一節が大きな古ぼけた石版に刻まれて家の壁に貼り付けられてありますね」などと話したのである。
じつは、ヴィクトル・ユゴー文学館の庭園の奥にも石碑があった。そこにこの「ビエーブル」の詩の一節といっしょに創価学会の池田大作氏の名前もどういうわけか刻まれてあった。こちらの方は金版の上に文字が彫られてある。
詩文の彫られた石碑にはどうしてここに池田氏の名前が書かれているかが説明されてある。それは(池田が)ここでこの詩を読んで、この場所で生活していたヴィクトル・ユゴーを偲び感動したので、石碑を作らせたとある。
これだけでも驚くべき厚顔さだ。どうも池田氏の読んだ「秋の木の葉」詩集に収められた「ビエーブル」の詩というのは、フランス語ではなく日本語訳であったことが想像されるのだ。

どのような訳を池田氏はここで読んで感動したのかは知らないが、ヴィクトル・ユゴー文学記念館で日本人訪問者に配っている館内案内の日本語パンフレットには、この石碑に刻まれたフランス語の詩文の箇所が訳されて掲載されてある。しかしこれはフランス語原文とは異なっているのである。
案内パンフレットの日本語訳というのは、池田氏が碑文に書いた感動を証明するかのように、原文にあるはずの文字を削って書き換えて訳してある。つまり原文にある筈の「そういう場所のひとつなのである」の箇所がこのパンフレットでは削って消えているわけだ。ここを理解してないので、池田氏のような感動が起こるのであろうかなどと私は想像するより他はなかった。
案内パンフレット掲載のユゴーの詩文の日本語訳は次の通り。

写真は、ヴィクトル・ユゴー文学館で配られている訪問者案内パンプレット。同文学館の庭園にある金版に彫られたヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」の「ビエーヴル」の詩の日本語訳に相当すると思われる訳がヴィクトル・ユゴー文学記念館で配っているパンフレットの表紙に掲載されている。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「そう、私達の心を酔わせる、天に漂う、何かが息づいているのを感じる場所:子供の頃、愛し、夢見た場所、その穏やかな、尽きせぬ、深き美しさは、この地上の、人間のすべての悪を魂から忘却させ、昇華させる。」
ヴィクトル・ユゴー 詩集「秋の木の葉」 <ビエーブル:
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・

写真はビエーブルのヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭園内の廃墟を模した塔。その手前に池田大作氏のつくらせた、ヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」の詩「ビエーブル」の一節を彫った金板が「石碑」としてたっている。
これをアップしたのが、下の写真。

ヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭園にその詩文が金版に彫られて立てられているが、その詩文に相当すると思われる箇所を以下に、ガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )と、同記念館の配る見学案内パンフレットの日本語訳文を掲載して比較して見てみる。
ヴィクトル・ユゴー文学記念館で日本人訪問者に配っている館内案内の日本語パンフレットには、この石碑に刻まれたフランス語の詩文の箇所が日本文に訳されてパンフレットには掲載されたようだが、しかしこれはフランス語原文の二箇所が訳されてないのである。
ヴィクトル・ユゴー文学館の庭園にある金版の詩文の引用箇所は、下の詩集の本文写真では右頁(789頁)上部のの6行である。

写真はヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」「ビエーヴル」の収まっているガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )の782-783頁である。
上掲載のガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )の783頁の詩文において、上から1行目の「un de ces lieux où」と3行目にある「un de ces lieux qu'」との箇所が日本語のパンフレットでは訳されず省かれている。この2箇所のレフレインが何故訳されてず削除されたのか?
この省略されてしまった箇所は詩における繰り返しの機能としても重要な箇所だ。しかもこのビエーヴルという場所の価値を決める大事な言葉である。これが訳されてないのは池田大作氏は知っているのであろうか?あるいはわざと日本語訳をこのように原文を削除して訳すことで、日本人訪問客へヴィクトル・ユゴー文学館の価値付けを高くしてみせたかったのであろうか?池田氏の感動したという詩はどんなテキストを読んでの感動であったのか。
この引用箇所は、ほぼ正確に金版に彫られたとみえるが、一箇所大事なものが削除されてしまった。それはこの本文テキストの6行目の最後にある感嘆符が池田氏の金版では省略されているのがわかる。
この詩全体の中でも感嘆符は頻繁に使用されていて、その感嘆符の意味は軽くはないはずだ。なぜならば池田大作氏自身がこの詩に感動したので詩を碑に刻むようにいったからだである。
(3)ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店
ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店は地上階より一階分だけ高くなっていて見晴らしがよい。北側の窓からは庭園が一望できる。西側にある入り口のガラス扉と南側にある窓からは周囲の低く開けた景観が遠望できる眺めの良い場所に建っている。
室内には茶色の小型のグランドピアノが置かれてあった。喫茶室の東奥にもう1つ広い部屋があってテーブルと椅子が置いてあるだけの殺風景な部屋であった。
私達は中庭に面した窓際のテーブルを前にしてすわった。
管理人のガイド氏(以下、ガイド氏と呼ぶ)は道路に面した東側にある正門が見える方を向いて座り、私はシャトーのある西の方を向いて座った。

写真はヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店で北側から撮影。入り口は西の右側の階段から入る。私たちの座ったのはこの窓側。ヴィクトル・ユゴー文学館本館のシャトーはこの喫茶店の右側隣に位置して建っている。
私は先日の感想を一言、話し始めた。「よかったですよ、青年部なのでしょうか?」
「ステェファン学芸員ですね。よく説明しようとみんな一生懸命に勉強しています」と答える。
「先日の訪問の時に日本の若い女性と来ていたフランス人青年は、訪問客ではなくて学会の青年部ですね」と私が質問する。
ガイド氏は、「そうです。学会員です。わかりましたか」と答えた。
「でも何故あの時に彼女は、いいところがあるから、いこーって、連れてきたの」などと、「私達の前で、不思議ですね」「彼女は学会人ですか?」わたしが質問した。
「いいえ、彼女は学会人ではありません」 「友達からここ(ヴィクトル・ユゴー文学館)を聞いたのでしょう。行ったらいいといわれていたのでしょう」と答えた。
彼女の父親は関西の人であるという。「研究者で、そのためにアメリカやフランスにきていた。その父親と幼い頃に一緒に来ているのです」といった。さきほどガイド氏が学会人だと明かした青年は、この女性の父親がフランスに滞在した時の大家さんの家族関係の人なのです」と、ガイド氏の話しは非常によく説明されていた。
しかし、ヴィクトル・ユゴー文学館に友達から行ったらいいといわれて来た女性なのだから、とうぜんのことユゴー文学館には初訪問であったということか?学会人ではないこの女性の素性をガイド氏は大変に詳しいのはなぜか。
フランス創価学会の男子部員が、池田大作先生(ガイド氏は「先生」と呼んだ)の建てたヴィクトル・ユゴー文学館に、学会員でない日本の若い女性に連れられてやって来たというガイド氏の説明になるが、それはどこか理解に困難な不思議な話しに思われた。
(4)入館検問
入り口に2人の青年がいた。2人は、ヴィクトル・ユゴー文学記念館の入館の切符の販売を担当しているのであったが、それだけではなかった。
「あなたたちは創価学会の青年部でしょう?」「ここには学会活動で来ているのですか?」「そこのベットはなぜあるのですか?」などと率直に聞いてみたのである。
中心者格の背の高い黒人の青年は躊躇していたがまもなく答えた。「ベットは遠方から活動でこのユゴー文学館にやってくる者が休むためなのです」といった。彼はパリ南郊外のアントニー市から創価学会の青年部の活動で来ているのだといった。

ヴィクトル・ユゴーが何度か家族と訪れた場所だが建物は当時のものではない。写真は南側からの撮影で雪が勾配と遠近感を消している。
ビエーブルの川はここではまだ流れは小さく城の前面で蛇行しながら左から右へ西から東へと流れている。隣町のベリエール市内を抜けてアントニー市付近まで流れ、方向を北に取りながら地下に流れをかえてパリ市内のイタリア広場を通過して現在はオーステリッツ駅とノートルダム寺院あたりの土管口からそれぞれセーヌ川に流れ込んでいる。
ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店でガイド氏に私が質問した。それは入館案内所の切符売り場にはベットが置いてあったことが不思議に思えたからであった。一人用の小さなもので奥の閉ざされた窓の方に寄せてある。切符売り場のテーブルの背後にはこのベットを隠すかのように低い衝立が置かれてあった。
「なぜベットが一人分しかないのですか?」と聞いた。ユゴー本館の城(シャトー)の地下には宿泊施設がつくられている。活動が忙しくなると使うのだと説明してくれた。
私はその後一週間して、寒い初春のある日曜日にユゴー文学館を再訪した。切符売り場を担当していた顔中ニキビだらけの青年は私が来ていることに気が付かなかった。戸外の寒さを避けてかガラス戸の内に避難していた。私はそのガラスを指で軽く叩いて合図した。
寒そうにして、ワイシャツの上にカーディガンを重ねた青年が顔一面を赤黒くなったニキビに埋めて私の前に出てきた。
私は、入場料の金額を知っていたが改めて聞いた。青年は1人であった。先週の青年ではない。何人かが交代で、土曜、日曜の2日間の週末だけ開館するユゴー文学館の活動をしているらしい。彼等は選ばれたフランス創価学会の男子部員なのであろう。
このかっての門番小屋のような入館検問の建物は入り口の扉の上部が格子で枠が白いペンキで塗ってあり小さないくつもの四角いガラスが美しく反射している。
門番小屋からは、城がある本館の方が見渡せた。広い庭園はやや南に傾斜しながら広がっている。景観は途中から急な崖になって30メートル下にビエーブルの川が右から左に細くゆっくりと東に流れていた。
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| ヴィクトル・ユゴー文学記念館は少々不便な所にあり自動車で乗り付ける訪問者もいる。写真は男子部員が入場券の販売をしているところ、正面の庭の奥が入場者の駐車場になっている。 |
ニキビのある青年は少々不機嫌な様子で、「入るのか」と一言いった。私が思案していると、「入場料は4ユーロ(約480円)だ、庭だけならば2ユーロだ」という。
そして、「ぜんぜん高くない」「パリの美術館がいくらするのかあなたは知っているのか」と、青年はパリの美術館の値段は示さずに「それに比べたらずっと安いのだ」といった。
彼は私を美術館とはおよそ縁の遠い者のように見立てたようだ。それにしてもパリのオルセー美術館やルーブル美術館などとは値段を比較に出すべき筋のものではないだろうになどと思いながら、私の脳裏にはこの男性はどこから来たのだろうと、ふと疑問がよこぎっていた。
フランス各地の美術館や博物館を訪問して入り口の係員から「入場料がよそよりも、こっちのほうが安い」などという宣伝文句などはかって私は聞いたことがなかったので驚いた。この一般市民に公開されたヴィクトル・ユゴー文学館はこのニキビの男性の気に入りなのであることがわかった。
「それじゃ館内を見せてください」というと、この男性は「少し待って」といって、次に「寒いから」といって中に入り、私も入るように招き入れた。
ユゴー文学館の庭には3月の春を告げるスイセンが花を咲かせたばかりで陽光はあったがまだ弱く寒かった。
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| ヴィクトル・ユゴー文学記念館、写真は北側からで入り口に電気がついている。 |
ニキビの青年は、誰かに電話をしている。料金のことではなくて、なにやら館内訪問のことで確認しているらしい。私は青年の前に立ていたが、この小さな建物の内部をあちこち眺めることにした。
青年が座った前のテーブルの上に電話と小さな金庫箱が置かれてあった。部屋は一つだけだ。カーテンのつい立が真ん中にある。その左奥に1人用の簡易ベットが毛布を被って置かれてあった。上着が脱ぎ捨ててあったのが見えた。
青年は突然の訪問客に不意に起こされて、少し機嫌が良くなかったのかもしれない。
青年は電話をし続けている。彼の前のテーブルの上には館内案内書の英語版があった。私はこれに手を伸ばして取って眺め始めた。青年は狭い部屋の中で電話の会話を聞かれまいとしているのか、受話器を持ったまま急に背中を私の方に向け直した。
しばらくして、受話器を離してから、私に、「何語ができるのか」と聞いた。わたしは「フランス語、英語・・・・・」と答えた。わざと日本語とはいわなかった。いえば先週に会っているガイド氏が案内役で出てくるのがわかっているからである。
館内は案内付きで自由見学は禁止されていて好きなだけ見るというわけにはいかない。再訪したのもその理由によるが、またわからない疑問が湧き出したせいでもある。
電話の向こうで話しているこの青年の相手は、明らかにユゴー文学館のガイド氏であることが想像できた。
また何かを電話で話している。そして今度の青年の質問は、「あなたはどこの国の人なのか」というものであった。これには少しは驚いた。が、私は日本人であるとは答えなかった。答える必要はないと思った。再び、「何人か」と聞いてくる。入館検問はかなり厳しいのだ。
青年はまた受話器を持ち直して電話の相手と話し始めた。その会話の中には前回に案内してもらった学芸員の「ステェファン」とか、ガイド氏の名前とかの聞き覚えのある名前があった。
そしてこの長い検問の後で、やっと私は青年からの最終判決がくだされたのである。「あなたはここには前に来たことがある」、「日本人でしょう。ガイドを知っていますね」というものであった。
私は兜を脱いで、「そうだ」と答えるのみであった。しばらくすると、ヴィクトル・ユゴー文学館のシャトーのある庭の奥の方から門番の検問小屋に向って小砂利の敷かれた小道の上をゆっくりと歩いてくる1人の日本人の姿がガラス戸の奥に写った。
(5) 池田大作の魂が宿る山と渓谷
「あの山には池田先生の魂が宿っているのです」と私の友人が話したのには驚いた。。彼は小型自動車をベルサイユから東へ向う県道を運転していた。窓の前方に展開する美しい山野の風景を指差しながら助手席にいる私に説明した。
「左に見えてきたシャトーが池田先生のヴィクトル・ユゴー文学館」。ビエーブル渓谷が山を背負った南向きの高台の斜面に冬の低い日差しをうけて大きな角ばった建造物が薄いバラ色に静かにたたずんでいた。「この辺の景観は八王子の創価大学の風景にとても似ている」と彼はいった。
私たちは前方奥の隣町ベリエール・ル・ビュッソンを目指していた。「創価大学パリ分校のあった所だよ」と教えてくれた。日本の創価大学を知らない私は、「高圧線を走らせる鉄塔がこんなに建っているのかい」などと質問する。
私の友人は早大の出身であったがこのパリ分校には特に関心があったようだ。彼は仕事が終わると、わざわざこのパリ分校のあった渓谷を走る細い旧道を選んでヴィクトル・ユゴー文学記念館の前を抜けてベルサイユ方面の自宅に帰るのだといった。
創価学会員の彼はパリ分校の設立計画があった当時を偲んでいるらしい。彼の心の中にはたしかに池田大作への思慕の感情が宿っているように見えた。とても真剣なのだ。
私は後日、彼に「池田の魂が宿っているといったのはどういうことか」と聞いてみた。
「創価大学の海外分校は、アメリカが中心になってしまい、パリ分校は廃校になってしまった」と淋しそうに答えた。その次に「池田先生が精魂を傾けて若い青年たちを鍛えようとされた場所なのです」と心を持ち直したように早口で語った。
ヴィクトル・ユゴー文学記念館のあるビエーブル市の東隣り町のベリエール・ビュッソン市には確かに創価大学パリ分校が存在していた。しかしフランスでの創価学会のセクト問題が荒れ狂う中でいつの間にかパリ分校は封鎖され数年前に売却されていた。
その存在は多くの人々の記憶からも消えようとしている。このヴィクトル・ユゴー文学記念館も、フランスに於けるセクトの異名であるのか創価学会の名前を捨てて、創価学会とは無関係な文化団体としての美術館の装いをみせているようだ。
世界的に有名なフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの名前を冠していればそれだけでなにか公的な美術館になってしまいそうな不思議さがある。
しかしその公共的な装いの響きとは別に創価学会という宗教団体の人々によって運営され管理されているというのは何かしっくりとしないものが残るのである。
ヴィクトル・ユゴーを隠れ蓑にして創価学会を宣揚するための活動をしているとなれば、これはフランスでは創価学会は隠れ蓑をつかっているということにもなる。
問題は、はたしてヴィクトル・ユゴー文学記念館というのはフランスの創価学会なのかということだった。
少なくとも一般のフランス人は創価学会だと思ってここを訪問する人は少ないのではないだろうか。みんなそれを知らないで来ているのではないだろうか。ヴィクトル・ユゴー文学記念館は一般に開かれた公共的な美術館の様相を呈しているが、実は創価学会の隠れ蓑なのではないかと確信するようになっていた。
(つづく)
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