2013年6月12日水曜日

崔の目は二つはかけられずという事

 今日の朝、駐車しておいた車のタイヤに釘が刺さっていた。昨夜すこし心配な気がして中に入れようかとはいったんは口にだしていたのだが駐車場についに入れなかった。車のタイヤの空気が抜かれたり、釘を刺されたりするのはこれが初めてではないので大きな驚きではない。こういう場合にはなんとなく前触れというか予感がするのはどうしてなのか?

  どんな事件にも大なり小なりの予兆があり前兆がありそれを予感として感じるということだ。しかしそれが何の知らせなのかは事前には明快にはわからないのである。だから事件を未然に防げるかというとそれがうまくはいかない。

 しかし予兆を感じる場合に十分に心することで、対処が変わることがあり得ることがわかった。これも不思議な発見であり不幸中の幸いというところだが,更にそれ以上の僥倖にもなり得る。いわゆる災い転じて福となるという次元のものに変化するとうことだ。

 最近は、何か悪いことが起こる場合にはその知らせを感じるのではなくて、事前に考えるようになったということである。だから時には特に厄介である。

 できるだけ悪所・悪人に近づかないということであるが、これは何処が悪所で誰が悪人なのかが見えない為にどうにもならない所がある。そうではなくて、積極的にこれを避けないで心して対処することも大事であるということだ。これは極めて簡単ではないが心して対処することで結果は大きく変わってくることになる。我々は見えない世界の予兆に対し、それを現実世界の見える世界に引き寄せて乗り越えてゆることができるということなのである。

 そういう中でこそ、しばしばいわれる崔の目は二つはかけられずという言葉が活きてくるのだと考える。