人間の「あやつり」という身の毛のよだつ逆ユートピアの世界が問題になっている。その意味ではハクスレーの「素晴らしい新世界」とジョージ・オーエルの「1984年」とは同じなのだが、ユートピア実現でのその「あやつり」方がオーエルでは外からの秩序の強制という自由侵害の恐怖にあったが、ハクスレーでは、人間の精神管理が条件反射や薬の反応効果の化学的進歩によって秩序というものが内面化され、自由を欲したがらない人間が作られて、抗議し犯行することのない自由願望喪失という世界を恐怖している。
「素晴らしい新世界」を読んだゼミでは、おそらくは権力の性格ということを話しあったのだと思う。その時のことが少し記憶によみがえってきた。人間が他の者を支配し自由に動かす欲望「他化自在天」というのがここにあり、これを西欧の思想ではどうすることもできないと話したことだ。今回、「文明の危機-素晴らしい新世界再訪-」を読んでもその私の印象は変わってなかった。
ハクスレーは人間を自由に変化する存在とは捉えていない。捉えているとしても薬や催眠術や暗示による外からのいわば被害者として個が負う影響変化なのである。私の話した「他化自在天」というのは支配者側の権力志向の魔性のことであるが、同時にこれはその強制を受ける側のことで自由を失い人形ロボットにされてしまうということでもある。それを避ける対策としてハクスレーの場合には、人間の善悪に通ずる絶対的な変化を積極的に評価できないようで、全力をあげてこの全体主義者の圧力と抗していかなければならないと言っているわけだ。
ハクスレーはこの権力の魔性に戦を挑んでいるわけだが、これは人間は誰もが持つ「他化自在天」の支配欲を現代の科学や政治の力では、その権化となった独裁者と戦うこと以外には解決できないと見ていることでもある。ハクスレーでは心理学を話しても、十界互具としての人間という個の深さとそれを包含する歴史の力動性へと連動する世界に立ち入って、したがって自他共に救済しようとする解決策は考慮されていないのだ。それは個人と社会の問題で、ここに対立を見るが、ある意味で共生的ともいえる十界互具を考えてないからである。というよりもそういう認識を知らないからであろう。
当時のゼミの先生はあれから何十年か経て、書かれた本が最近に出版されたのを知った。非常に興味深いのは「貪欲に抗する社会の構築」というタイトルだ。副題が、「近代合理主義をこえる仏教の叡智」というものである。
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