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2013年12月21日土曜日

「日本の伝説」柳田国男著 (角川文庫)を読む 浜辺の砂子の数ほどある話しを数えて・・・


そうとう前から「大師講」という言葉が気になっていた。それがこの柳田の本に書かれている。私の知りたかった意味はそこには書いてなくて、民間での使われ方の事例が幾つも引かれている。本書そのものがそうした各地の民間での仏教や神話事例の個別的な解釈のお話しである。これが集めれたものだ。仏教の因果応報もここではおかしなことに仕返し談になっている。これが弘法のこととなるとなお面白いが、豊臣秀吉でもよいし必ずしも別の人でもかまわないということらしい。つまり誰でもよいのである。

その場その場の土地状況の個別性にあわせて話しができているので普遍性とは乖離していて、むしろ話の事例は数限りなくあり浜辺の砂子の数を数えているようでもある。柳田はこれを面白くないと思ったのか、「これと同じような伝説は、他の地方に数多くありまして、ただ関係した人の名がちがっているばかりであります」と言っている。

これは柳田が、「こんな話はいくらでもありますから、もういいかげんにしておきましょう」と言うとき、私たちは伝説の摩り替えのトリック性に気がつくのである。別の言い方をすればそれは随他意の方便の話しであるということである。対象は数限りないために、だから話しは無尽蔵にあるわけだ。

そのことに柳田は気がついていたのは言うまでもない。民間伝承の保存を叫んでも、それは浜辺の砂子の数ほどある話しを数えているようなものだということである。

2013年12月2日月曜日

ハクスレーやオーエルの逆ユートピア問題解決へ 「文明の危機-素晴らしい新世界再訪-」を読む

英国の作家 オルダス・ハクスレー(Aldous Huxley)はケネディ米大統領の死亡した1963年11月22日に死んでいる。「素晴らしい新世界」(1932年)は彼の作品で特に有名。学生のころにゼミの副読本の一つとしてこれを読んだ。その本は文庫本だったように記憶している。死後50年ということでハクスレーの本を何か読んでみたいと思った。私の本棚には「文明の危機-素晴らしい新世界再訪-」(A.ハックスレー著 谷崎隆昭訳 雄渾社1966年4月20日)というのが見つかった。


人間の「あやつり」という身の毛のよだつ逆ユートピアの世界が問題になっている。その意味ではハクスレーの「素晴らしい新世界」とジョージ・オーエルの「1984年」とは同じなのだが、ユートピア実現でのその「あやつり」方がオーエルでは外からの秩序の強制という自由侵害の恐怖にあったが、ハクスレーでは、人間の精神管理が条件反射や薬の反応効果の化学的進歩によって秩序というものが内面化され、自由を欲したがらない人間が作られて、抗議し犯行することのない自由願望喪失という世界を恐怖している。

「素晴らしい新世界」を読んだゼミでは、おそらくは権力の性格ということを話しあったのだと思う。その時のことが少し記憶によみがえってきた。人間が他の者を支配し自由に動かす欲望「他化自在天」というのがここにあり、これを西欧の思想ではどうすることもできないと話したことだ。今回、「文明の危機-素晴らしい新世界再訪-」を読んでもその私の印象は変わってなかった。

ハクスレーは人間を自由に変化する存在とは捉えていない。捉えているとしても薬や催眠術や暗示による外からのいわば被害者として個が負う影響変化なのである。私の話した「他化自在天」というのは支配者側の権力志向の魔性のことであるが、同時にこれはその強制を受ける側のことで自由を失い人形ロボットにされてしまうということでもある。それを避ける対策としてハクスレーの場合には、人間の善悪に通ずる絶対的な変化を積極的に評価できないようで、全力をあげてこの全体主義者の圧力と抗していかなければならないと言っているわけだ。

ハクスレーはこの権力の魔性に戦を挑んでいるわけだが、これは人間は誰もが持つ「他化自在天」の支配欲を現代の科学や政治の力では、その権化となった独裁者と戦うこと以外には解決できないと見ていることでもある。ハクスレーでは心理学を話しても、十界互具としての人間という個の深さとそれを包含する歴史の力動性へと連動する世界に立ち入って、したがって自他共に救済しようとする解決策は考慮されていないのだ。それは個人と社会の問題で、ここに対立を見るが、ある意味で共生的ともいえる十界互具を考えてないからである。というよりもそういう認識を知らないからであろう。

当時のゼミの先生はあれから何十年か経て、書かれた本が最近に出版されたのを知った。非常に興味深いのは「貪欲に抗する社会の構築」というタイトルだ。副題が、「近代合理主義をこえる仏教の叡智」というものである。




2013年11月15日金曜日

キリスト教の常識とは未だ誰も救われていないことを知ることだ 「キリスト教文化の常識」(石黒マリーローズ 講談社現代新書) 

「キリスト教文化の常識」(石黒マリーローズ 講談社現代新書 1994年10月10日)はキリスト教の聖書の解説書であるが、常識的に考えておかしなことが多すぎるのはキリスト教それ自体の問題で著者の責任ではないのかもしれない。たとえば本書の170頁-171頁には、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤りで量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7.1-3) 要するに聖書は、「あなたがどんな状況にあるときでも、あなたのニーズに応えてくれる本なのです」とある。

しかし天国の門を守っている天使サンミッシェルは手に天秤をもって人の魂をはかっているのである。天秤というのは支点や分銅を変えることでいくらでも測る対象を上げたり下げたりすることができる相対的な判断でしかないのである。


だから人間を量るなどという大それたことをしかも地獄だの天国だのをこの天秤に載せて量っていることは人間の価値の尊厳を相対化させてしか見ていないのである。


人間が何ものによってしても量れない重いものだということを理解できてないからだと考える。そういう人間の尊厳を神や天使を使って過小評価し計量化できると考えていることが問題なのだ。そこにヒューマニズムが否定されていると考える。


それからもう一つ言うと、石黒氏の言う聖書とは、「どんな状況にあるときでも、あなたのニーズに応えてくれる本なのです」というが、これは万能薬みたいなもののことであるのだろう。これはどういうことかといえば頭の痛い人には頭痛薬を与え、腹の痛い人には腹痛剤を与え、貧乏な人には金儲けの仕方を教えるようなものである。

そのような薬というものは本質的な苦しみを解決しない。それはなぜかというとその時々の人々の意中の悩みやその場その場での苦しみしか解決できないからである。これは随他意の薬といって対処に従ってあれこれと病者に医者が教えを説くやりかたである。これは一見人々の痛く痒い所に手が届いていて人に理解を示しているようでわかり易く親切にも見える。が、所詮は悩む衆生の心に随ってそのつどそのつど教えを説いたものでしかなく、それを解決したところでその悩みの元凶が解決してないのでその域から永遠に出ないのである。また同様な悩みが繰り返し起こってくるのである。これを六道輪廻という。そういうところがキリスト教の教えにはあるのである。 

だからキリスト教では「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「疲れた者」「重荷を負う者」「罪人」「病人」などしか救われないのである。つまり、罪を背負ったマイナーな人間として自分を受け入れない者はキリスト教徒にはなり得ないということである。アダムとイブの罪を継承することを否定し、自分に罪の意識がない者は救われないのである。救われる人間はキリスト教によって定められているのである。私のような罪人の意識のない者はだめだということである。

石黒氏は、同書165頁で、新約聖書の第1巻の第1章に見慣れない人の名前が並んでいるとして、「これらの名前はイエス・キリストの先祖の家系図であり」「メシアとしてダビデの血をひく由緒正しい家柄の出であることが大切なわけです。こうしてアブラハムの時代から綿々と続く系図を明らかにした後、福音書ライターのマタイはイエス誕生の物語を始めます」と書いている。

こういう肉体的な血の系列を表に立てる考えというのは、キリスト教徒がイスラム教徒を十字軍遠征で殺害することを許し、異教徒や異民族への人種的差別を準備した言葉に聞こえる。もっともこの件に関しては、教皇ジャン・ポールⅡがイスラム教徒殺害を謝罪したと聞いている。やはり血液を中心にした思想にはどこか異質なものにたいする差別が温存されやすいということだ。

166頁にはクリスマスに関して書かれていて、「これはイエス・キリストの誕生を祝うパーティなのです」とある。これはキリスト教以前のアミニズムの時代に、「春祭り」として太陽崇拝があって、キリスト教がこれを駆逐した後に「クリスマス」となったわけで、キリスト教徒が戸に架けるヤドリギで作った丸い輪のギルランドなどもキリスト教以前の多神教崇拝の時代のものを名前を変えて利用したものだ。クリスマスはキリストの誕生を祝うものではなくて、それより先に春を告げる民衆の祭りであったのである。

キリスト教会の制度に触れた文章(97頁)では、「カトリック教会は、この教皇を頂点として、司教、助祭、等々とピラミッド形の位階制度を構成しています」とある。実際にはこれはキリスト教社会の大きな規律の一つになっているもので、上の者には下のものが絶対服従の戒律に近いものであるということである。そういうキリスト教は民主主義社会の中で人々と教皇が平等なはずが無いだろうということだ。石黒氏が、「カトリック教徒は誕生から墓場に入るまで、教区司祭の世話になるのです」と平然と語れるのは、教会のピラミッド制度の延長線上に、信徒を位地づけて考えているからである。

93頁には「病者の塗油」の話しがある。臨終が近づくと、病人の枕元に司祭がよばれ、病人の目・鼻・口などに聖油を塗り祈るのだという。そして「この儀式により、亡くなった人はすべての罪がゆるされ、この世の終わり、キリストが再来して永遠のいのちによみがえるまで、しばしの眠りに入るのです」と書いている。これは石黒氏のキリスト教理解として短い文章だが重要である。おそらくはキリスト教徒はこのように死後を考えているのであろう。

ここでの問題は「この儀式により、亡くなった人はすべての罪がゆるされ」るのか?ということだ。これでは悪いことをしても許されるのだから誰でもが平気で悪い事を生きている内にするだろう。しかもキリスト教は人の誤りを人が裁くことを非難するわけだから、キリスト教というは因果応報という小乗仏教での低い教えさえしらないわけだ。つまり原因と結果が繋がってなくそれぞれ分裂し孤立しているのである。因果が乖離しているために責任をとるべき者がとらなくてもよくできている。 

キリスト教では神がつくった天地創造が始めにあり、その対極に最後の審判がある。始めがあり終わりがあるということだ。だからキリスト教は永遠ではないのである。天地創造は遠い過去の昔といっても始めがあるわけだ。だからキリスト教は小乗教と同じく始源性を争う宗教だということになる。

石黒氏は、「永遠の生命が直接信徒に与えられ」(頁81)「永遠のいのちによみがえるまで」(頁94)と書いている。つまりキリスト教でいう「永遠」とはあるキリスト教のミサの典礼とかキリストの再臨を望んでしか実現しないもののことであるわけで、ここのところが大事なところだ。キリストの介在によってしか、始めと終わりのある有限は、「永遠」になれないとキリスト教の司祭たちは手品や魔術のような話を主張するのである。


そしてそんな人間の復活などが、実際に実現することは、昔も今も未来もだが、かって誰も現実に見ることは無いのである。見たことも無いのである。それを忘れてはならないだろう。だから今まで誰もかって一人も救われた者が、キリスト教ではいないということなのである。     


宗教の布教というのは非常に難しい。何が難しいと言えば広めることだが、何が広まるかという事なのです。そこに排除や同化の問題があるわけです。広めるとは別の世界にも広めることで、イスラム教徒にも広めるのです。そこでキリスト教はどういう方向で広めるのか? また日本への伝道もあったがどういう広まり方をしたのか?そこに排除や同化の問題が起こるわけです。ここでは二つを上げましたが、イスラム世界と仏教のしかも大乗の広まった日本の二つの例でいえば、一方は排除であり他方は同化となるのではないかと思います。ただこの同化においてキリスト教が変質しなければならなかったという諸外国への布教・伝播における原教義の喪失のような崩壊現象が少なからずあったのではないかと考えています。つまり元のキリスト教ではなくなっていくということです。これは仏教にも言えることなのです。その原因を考えたことがありますが、それは教えが低いからなのです。教えが低いために大乗仏教を前にして正しくキリスト教は広まらないのです。変容が余儀なくされるのです。武力による弾圧の観点も指摘されますが、本当はそうではないのです。本当に素晴らしい宗教であればたとえ困難はあってもそれを乗り越えて正しく広まるのです。


見て信じるということと、見ないで信じるということ。これは信じるということは見る見ないに関係がないのです。見たからといってそれがより深く信じる証拠にはならない。信じる根拠にならないのです。ですから正しくは、貴方は私を見て信じた。別の人は私を見ないで信じた。ともに等しく信から発していると一応はなるのだと思います。それは見て不信を抱いたり、見ても信じないひとがいるからです。信の芽が焼かれている人に頭で考える知識人があるのです。これは信の弱い代表なのです。しかし問題の信・不信とは何を信ずるかという対象側の問題こそが実は、ここでのキリスト教の大問題なのです。キリストを見ても見なくても信じない者はどっちみち救われないのですが、信じる者は見ても見なくても、尚更に救われないということです。これを隠してはいけないということです。どうしてかというと前から何度もいっているように、キリスト教そのものに救済の力がないからです。それが一つは選民思想であり天秤で人間を量る最後の審判であり天国と地獄の世界観なのです。こういうものを用意しないとキリスト教は人を救えないのです。


教えの質と人々の苦悩の深さによるのだと思います。病人や幼児にこわ飯しを与えても食べられない。大人に粥や離乳食を与えても満足しないのです。それではどうしたら総ての人々が満足する教えを提出できるのかということですが。ようするに随他意だからだめのです。キリスト教や大乗仏教などでさえも衆生の求める姿に随って法を説いているところがあるのです。特にキリスト教の場合にはこの衆生の求める要求が高い為に、求めを低くせよと要求する教えの形をとってくるわけです。それだから教えを聞けば聞くほどますます欲求不満になってくるのです。キリスト教は現代の人々に禁欲を強いなければ救えない宗教なのだと思います。「キリスト教徒がミサに行くのは」そういう不安を抑え込むことが必要だからなのでしょう。だから、自分の悩みそのものを救うのではなく、キリストの教えの型に自分を合わせているわけです。


「イエスが砂漠で修行をして空腹の時に見つけたイチジクの木に身がないからと「二度と実を結ぶな」としたイエスの心には否定するものを受け入れる心があったのか、」との問に対しては、私自身は次のように考えました。



イチジクといえば、パリの第4区のシャルルマーニュ高校近くにイチジク通り(Rue du figuier)というのがあって、イチジクの木が植えられていて実がなるのです。キリスト教のシンボルでは種が多いので子沢山というかキリスト教徒の繁栄と増加を表しているそうです。日本語では無花果と訳すのですが、これにいろいろと論議があるのです。修行の身のキリストがどうして、イチジクに実が無いからと言って無花果を叱りつけるエゴが許されるのかということです。それよりもみじめな自分の因果を探ったほうが、修行者としては賢かったのではないかと思えるのです。イチジクとは本当は、無花有果ではないかということです。また植物には有花無果もあるし、有花有果や無花有果もある。これらは因果を表していて、花が咲いて実がなるのですが、そこに因果と共に目に見えるか否かの時間的な関係を示している。イチジクが、無花(有)果というのは「花の無い果実」と読むのではなくて、花と実が同時に存在する果実というふうに読む必要があるのです。そうすることで、目に見えない因果が理解できるのです。このイチジクは見た目には実がなってない一本の樹木だが、そこに実をつけ花も咲く共時性の因果を教えているわけです。ただしこんなことはキリスト教では理解できないのです。だからキリストでされ腹を空かせ不平を言ったのです。もっと高い教えでこれをみれば、ああここにこの不思議な因果を表現したイチジクの木があったのか、満足であるとなるのです。自分の境遇を悟り、他の存在を悟るわけですね。それでまた一言付け加えさせていただきますと、キリストはそんなことを理解してもオレのお腹は満たされないではないかというでしょう。それは因果を異時で考えているからです。秋にならないと実はならない。それまで待てるかというわけです。ところが因果が倶時であると考えると、この木は実がなってない花も今も咲いてないが、この現在の木の中に実も花も存在していると見る事が出来るのです。秋になって実がなり花がさくんは時間的な結果にすぎない。その因があるのであるから必然性としての果を見る事ができるのです。ところがキリスト教はこの因果を認めないどころか、因果が倶時であることを信じられない。それでキリストは因果を教える木であるイチジクを叱ったのです。自分の考えに反すると。キリストは、自分が因果の統率者でその始原者であると思っているために、このイチジクの因果律に反する為に、それでキリストはイチジクを嫌ったのだと思います。イチジクなど嫌って食べたいとは思わなかったはずです。「始原」といい「原初」といい、これは世界創生の初めがあって最後の審判の終わりがあるという思想なのです。 因果律の断絶する思想のタイプなのです。

2013年11月14日木曜日

「日韓音楽ノート」姜 信子著 「日本の耳」小倉 朗著 文化比較論を超えて創造の「乱場」へ越境



「日韓音楽ノート」(姜 信子著 岩波新書1998年1月20日発行 )は著者の音楽的体験談ともいうべきものだ。小倉 朗著「日本の耳」(岩波新書 1977年5月20日)は、日本の耳と西欧の耳との違いを論じた文化比較論だ。この二冊がどういうわけか私の粗末な本棚に隣り合わせに並んでいた。この両者は音と歌の精神世界を問題にしている。小倉は、他の音の介在を許す日本の耳と他の音を排除する厳格な構成を要求したヨーロッパの音楽を対比してその違いを引き出す手法だが、姜の認識は鋭く亡命者や境界人としての在日韓国人三世の自分を見つめながら、一つのアイデンティティを求めず、どこかに属することもなくあるいは属せない人々を指して、そこに創造的「乱場」としての越境をする旅人を見いだしている。

姜はこれを「土地を失った農民たちは、生きる場所を求めて、都市へ、日本へ、満州へ、シベリアへと流れていく」と書いている。これが1923年の関東大震災直後におきた朝鮮人大虐殺の犠牲者たちで、「コメ難民」であったという村井紀氏著「南島イデオロギーの発生」(福武書店 1992年)を引用しながら、こうしてコメを求めて日本に流れてきた韓国人を「失郷民」だったといった。

姜は、「純粋さを至上価値とするイデオロギーが混沌たる現実を支配しようとする力がはたらくところでは、つねに起こることだ」(同書143頁)として、李美子の「わたしの歌は倭色ではありません。韓国の伝統歌謡です」との主張を婉曲に揶揄してみせた。文章は複雑だが、しかしこれは失郷民である姜の体験的な名言なのである。

「日韓音楽ノート」は、水俣の石牟礼道子さんとの出会いなどが書かれている第5章の「古賀メロディーと失郷民たちの歌」が一番面白く、本書の初めの章を飾るべきであったと思う。



2013年8月3日土曜日

「フランスの憂鬱」(清水弟著 岩波新書) 「憂鬱」の根源は何か?

 
「フランスの憂鬱」(清水弟著 岩波新書 240)
   「フランスの憂鬱」(清水弟著 岩波新書 240)は1992年に書かれたものだ。フランスの現代を振り返ってみようと考え読んでみた。政党と政治家の動向があれこれと描かれている。スト、デモ、失業などが書かれている。「移民差別や極右・国民戦線の台頭などフランス社会は病んでいる」、「偉大にして寛容なフランスはどこにいったのか」と問いかけ、「フランス革命と人権宣言は二〇〇年たった今も、人類の見果てぬ夢であり続けている」(226頁)と結論している。