2015年9月3日木曜日

創価の池田大作の誤れる「立正安国論」解説 「戦争のない社会」=「安国」実現の「平和論」を展開



「日蓮大聖人御書五大部」(監修 池田大作氏 昭和五十年五月三日発行 発行所 創価学会)


池田大作は、「立正安国論」という日蓮大聖人の著作を利用して、「戦争のない社会」=「安国」実現の「平和論」を展開している。これを創価学会の平和路線の根拠にしたのである。この「立正安国論」の箇所であるが、この箇所を池田は、読み間違えて解説(332頁)しているのである。「立正」は日蓮大聖人の主張であるが、「四表の静謐」は日蓮大聖人の主張ではないのである。不思議に思えるかもしれないが、日蓮大聖人は、国家太平や平和安穏を直接的に祈ったり祈祷したりはしないのである。池田大作はもう口を開かないから、1975年の池田の話しをメッセージとして(参考記事参照)出したのだろう。本当に日本のことを心配するならば、なぜ池田大作の指導どおりに「公明党」が行動しなかったのかを知らなければならない。というよりは正しくはそうではなくて、「公明党」は池田大作の指導どおり動いてきたのである。池田・創価学会が日蓮正宗とうまくいかなくなって独自路線の「戦争阻止の為の平和運動路線」を開始したところから狂ってしまったことを知るべきだ。これは恒常的に世界や日本に戦争や戦乱の危機が存在しないとやっていけない「平和屋」の思想なのである。これを池田大作は「立正安国論講義」(昭和41年7月3日発行)という分厚い書物を書いてそこで論じている。「国土を失い、国が亡びてしまったならば、一体どこへのがれていけるであろうか。あなたはすべからく、一身の安堵を願うならば、まず一国の静穏、平和を祈るべきである。」(「立正安国論講義」987頁)この文は池田による、「立正安国論」の「通解」であり誤って作り変えている。ここは本当は、「国土を失い、国が亡びてしまったならば、一体どこへのがれていけるであろうか。あなたの主張であるように、一身の安堵を願うならば、まず一国の静穏、平和を祈るべきなのであろうか」と疑問形にならなければ、日蓮大聖人の主人の立場が一貫したものとはならないからだ。(パリ=飛田正夫 2015/09/03 0:50 日本標準時 )

そのために、池田大作は「日蓮大聖人御書五大部」(監修 池田大作氏 昭和五十年五月三日)のなかで、「四表の静謐」を論じている箇所だが、池田の「立正安国論」に対する認識に誤りがあるために、ここでも上掲した「立正安国論講義」(池田大作著 昭和41年7月3日発行)での解説と同様に、御書を解説して「国を安んずるという場合、その内容には、さまざまな面がふくまれると思うが、なんといっても戦争のない平和な社会を実現することこそ「安国」の根本といえる。「立正安国論」は、いいかえれば宗教的次元からの平和論といっても過言でない。我々が宗教的信念に基づいて、平和運動を推進しているのは、ここによっているのである」(332頁)と解説している。

ここにおいて創価学会の「安国」=「戦争のない平和」運動論を立てる為の、「立正」を従「安国」を主と読み替えた転倒が指摘できるのだ。

ここから「平和の為の戦い」は出てきたのである。池田が原爆使用禁止宣言をした戸田城聖の遺言を裏切った福島原発開発を公明党が支持したのも、池田の原子力の軍事利用はだめでも平和利用ならよいとした発言によるのである。戸田はアトムの使用を許す者は死刑にせよといっていたのである。








【参考記事】
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