2015年11月12日木曜日

立花隆氏を論ずる本を読んで、生でやることの重要さを追想


立花隆氏に関する本を偶然にニ冊ほど最近になって読んだ。 『僕はこんな本を読んできた』と、『立花隆のすべて』で 、共に2冊とも「文藝春秋社」の本である。立花隆氏の名前を親しく初めて聞いたのは、私の参加していたゼミの教師であった駒井洋さんからで、駒井さんから自分の親友だと話がどういうコンテクストだったか忘れたが、あったからである。(パリ=飛田正夫2015/11/12 9:25日本標準時 )

二人が大学時代に約7か月間広島・長崎の反原発映画フィルムを担いでヨーロッパを貧乏巡業旅行したことはこの本を読むまで知らなかった。この話しは『立花隆のすべて』の中で語られている。非常に面白い青春を送ったようだ。そこで立花氏が意気込んで指摘して書いていることが、日本における日本人のキリスト教観の認識の誤解である。 立花氏は学生時代のヨーロッパ巡業旅行で、早くこのことを知ったことに誇りを感じているようだ。


『僕はこんな本を読んできた』の中では、聖書に傍線や書き込みなどが沢山されていることが紹介されていて、キリスト教に影響されていたような書き方がなされている。ところが、『立花隆のすべて』では、いろんな方が登場して様々な立花論の見解を述べているが、一つだけというのであればそれは養老孟司(ようろうたけし)氏の話されていることだ。養老氏によると、立花隆氏の人間学あるいは人間の理解への視座が、キリスト教ではなくて、アリストテレスのヘレニズム文明に置いているという話しである。こういうことをさっと見抜いて話している人というのは、梅原猛氏も哲学者との関連でこの本で立花氏を論じてはいるが、やはりこの本の中では養老氏だけであった。


語学に関しても、『僕はこんな本を読んできた』と、『立花隆のすべて』では相当に見解が異なっている。『僕はこんな本を読んできた』だけを読んでいると、立花氏は、英語、仏語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、ペルシャ語、アラビア語に通じる語学の天才のような書き方がなされてある。ところが、『立花隆のすべて』を読むと、ヨーロッパ巡業旅行の時に、英語がさっぱり通じないことに失望し発音のせいではないかと言ってる。
しかしながらこの旅では東大仏文科出であっても仏語も通じなかったのであろう。語学を甘くは見れないのだと私は思った。3万5千冊以上も本を持っている割には外国語文献の本が殆ど少ないというか紹介されてないし、読まないのではないかと思うのだ。


しかし、この二冊の『僕はこんな本を読んできた』と、『立花隆のすべて』には、調査ジャーナリストの文章の書き方や問題の捉え方に関する素晴らしい見解が随所に書かれていて、その点では私は満足である。。その一つをここに引用すると、「翻訳は誤訳、悪役がきわめて多い。翻訳書でよくわからない部分に出会ったら、自分の頭を疑うより、誤訳ではないかとまず疑ってみよ」 これなどは、私の勉強を悩ましてきたものの一つである。


そのために私は翻訳は買っても読まないで飾ってあるのである。逆にいうと読んでわからないものが殆どである場合が多いからだ。もうなくなった私の先生は、「翻訳ばっかりやってないで」「研究をこれからは、生でやらないとだめだ」と言われていたことを想い出す。そういう話しをまともに聞いていると、人生がいくつあっても足らないような気もしたことがあったが。今はそれだけの価値があったことを少しは味っている。