2016年1月17日日曜日

日立製作所の工業史に観る 日本支配の道具としての神道

日立市という町は日立製作所の名前で戦後に世界的に有名になった。初めは1905年の頃に銅を掘る鉱山として始まった。16世紀末の佐竹藩の時代には金も多少でたらしい。その鉱山の機械修理部の責任者が小平浪平で、ここで後に有名になる日立のモーターを国産第一号として完成させている。その工場があった白金町という市の中心よりもやや西北部に、日立工場山手工場というのがあり、その工場の敷地内に熊野神社というのが祭られている。このような拝むべき対象でない神社がいくら民間の工場とはいえ工場の守り神だとして同敷地内に鎮守している。これは全く、民主主義の社会にふさわしくないどころか、信仰というものに無知な産業家の労働者に対する誤った姿勢であると考える。合理的な産業家が誤れる神社信仰を守り神にしているのは全く科学的でないばかりか、日本国憲法の宗教の自由の精神に反するのである。そのような誤った思想が基本にあると、必ず悪い結果が出てくるというのが因果律なのだ。日本の宗教は神社・神輿や仏閣においても、その祭り方に多くの誤りがあって良くないのである。

さて、日立製作所の基礎となった銅山だが、私の子供の頃は、この銅の精錬で使う毒水が濁流となって市内を流れて、太平洋へと注ぐ宮田川を汚していた。本当に公害そのものが流れる川であった。勿論、銅山のある大雄院という山麓には、大煙突が建設されそこから煙は遠く広く流れるようにされていた。その鉱山で使用した水は、宮田川を魚の住めない川にしていた。その鉱毒水の問題は16~17世紀の赤沢鉱山の頃からあったようだ。

私が子供の頃は、日立市内の会瀬(おおせ)港では小型漁船が停泊して岸で魚を売っていた。港では泳ぐことはできなかったが、近くの小貝ガ浜辺りでは海水浴が出来た。しかし、今考えると危険だった。もっとも今は、このあたりは福島原発事故で目に見えないもっと危険な死の海になっている。

私は、二年前にこの浜の近くに日本画の美術館を訪ねて、浜辺の民宿に泊まったことがあるが、海だけでなく村が死滅化していたのには驚いた。

福島原発事件といい、日立の煙害といい電化がすすみ解決したようにいう人は多いようだ。しかし日本の工業発展史のなかで日立製作所の果たした役割をいうのであれば、この栄光の裏にあった市民の犠牲の歴史こそが今やっと、民衆の苦しみの噴出となって社会の表層に躍り出て来たのではないかと思われる。

日立銅山の精錬に伴う煙害や福島の放射能汚染問題を表面化させないように示談的に丸く処理し隠すことに、対立を弱め個人を隠す思想である日本の神道が(熊野神社を含め)機能してきたのではないかということだ。日本の工業の発展と日本国民の精神的構造との関係が、祭り方を誤った神社や仏教によって、企業家に都合のよいように支配され利用されて来たのだが、今度はそれが国や企業家に報いているわけだ。日本の悲しむべき誤りはここにあるのだろう。