ヨウ素131の半減期は8日だが、セシュウム137の半減期は30年であり、福島避難の地域では数十年あるいは100年に渡り無人になる他はないと、小出裕章京都大学助教授は「原子力村の大罪」(KKベストセラーズ 2011年)の中で書いて被爆や放射能の恐ろしさを指摘されている。放射能被爆の苦しみを生み出すアトム使用の禁止を戸田城聖の遺命として持つ創価学会や公明党は、師の戸田のようには広島や長崎の放射能の恐ろしさを正しくとらえてなかったのではないか?
最も革新的な反核・反原爆汚染の戸田の思想は、池田大作には正しく継承されずに変更されてしまった。そこに、核放射能被爆や汚染を許し、福島の原発事故を実現させた宗教的な淵源があったのではないかと考えるのである。
戦争が起こらなければ核は原爆として使用されないのだから、「世界平和」を祈り「不戦の誓い」が実現されれば核は危険ではなく、その平和利用が可能だと解釈しとらえ直して放射能汚染の悪魔性を結果的には許してしまったのではないかと考えるのである。
それをすべき使命を受けた人々が、原発基地建設に協力してしまったのである。それは何故そのようなことになったのだろうか、一つには原発の平和利用は広島や長崎の原水爆とは無関係だという誤った認識が広がっていたのではないだろうか。つまり戦争になれば核弾道弾に原水爆が搭載されて使用される可能性があり危険だが、「世界平和」が維持されて戦争が無ければ原子爆弾は使用されずに放射能の被害は避けられると考えていたのだと思う。
そこに、「不戦の誓い」という新たな方針が打ち出されて、戸田城聖の宣言したような原爆を使用した者はすべて死刑にすべという厳格な反原水爆の思想というものが退化していったのだと見る。創価学会の原子爆弾禁止の思想が、ここに到って誤った論理に踊らされて後退してしまったのだ。
これはどういうことかというと、創価学会・公明党の人たちが慕う日蓮大聖人の著述(御書)の中には、国家・社会の安穏の実現と宗教的な正邪との関係性を論じている箇所があり、その誤れる論理とはどういうものかを書き顕わされているので以下に引用する。
「立正安国論」(平成新編244頁、全集26頁)の箇所で、「所詮天下泰平国土安穏は君臣の願ふ所、土民の思ふ所なり。夫(それ)国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先づ国家を祈りて須(すべから)く仏法を立つべし。」とある。
もちろん、これは「客人」つまり法然の側の論議の主張を話された箇所であることはいうまでもない。(「立正安国論」は主人と客人の対話形式で書かれているからだ)
上掲載文の意味を簡単に説明すると、戦争がもし起きたのならば、皆さんが拝んでいる御本尊も焼けてしまう。だから、天下泰平国土安穏が先ず大事なのだ。これを先ず祈るべきである。そうでないと戦争で信仰もできなくなってしまう。つまり、創価学会の「世界平和」の運動路線や「不戦の誓い」というのは、このような仏法の法ではない法然という人の誤れる解釈を背景にして押し出されてきたものだ。「邪正を弁(わきま)ふること無」く、「仏法の説を見ず」して、「法主人従」の格を主従転倒させてしまい、仏法が破壊されてしまったのである。
つまり彼らは、「経を下し僧を謗ずること」によって、法然の立議である選択集の「捨閉閣抛」(しゃへいかくほう)を結果的には演じ念仏の無限地獄を実現させてしまったのである。それが広島であり長崎であり、今回の福島であったと考える。
問題は、福島の放射能汚染・被爆のことだが、これは戦争によって起こったものではなく、戦争とは無関係に起こったということである。戦争が起こることで核が使用され放射能汚染が起きたのではないのである。
「不戦の誓い」とか世界が平和であって戦争が無ければ、「原発の平和利用」には放射能被爆の危機はないとする考えを見事に裏切ったのが福島の事件であった。
現在の創価学会・公明党の考えとは異なって、戸田の原水爆に対する思想には軍事利用は悪であるが平和利用は善だとする考えはなかったのではないか?
原子(アトム)に軍事利用と平和利用の二つを立ててみせて、これを分離することで原爆の持つ本質である放射能汚染つまり被爆だが、これを許してしまったのには、後の創価学会の池田大作氏などの、「不戦の誓い」等に見られる原発の平和的利用を支持するための解釈的な方向転換があったのだと考えられる。
政治家や科学者でも原発基地がなぜ危険なのかは福島原発事故を迎えてからでしか本当に理解できなかったようだ。日本には原爆の悪魔性を哲学的かつ宗教的に説明した者は少ないために、戸田城聖の原水爆禁止宣言の先見性に比し、それを後継できなかった後の創価学会や公明党などの思想的な乖離が非常に残念に思えるのである。
そこに、「不戦の誓い」という新たな方針が打ち出されて、戸田城聖の宣言したような原爆を使用した者はすべて死刑にすべという厳格な反原水爆の思想というものが退化していったのだと見る。創価学会の原子爆弾禁止の思想が、ここに到って誤った論理に踊らされて後退してしまったのだ。
これはどういうことかというと、創価学会・公明党の人たちが慕う日蓮大聖人の著述(御書)の中には、国家・社会の安穏の実現と宗教的な正邪との関係性を論じている箇所があり、その誤れる論理とはどういうものかを書き顕わされているので以下に引用する。
「立正安国論」(平成新編244頁、全集26頁)の箇所で、「所詮天下泰平国土安穏は君臣の願ふ所、土民の思ふ所なり。夫(それ)国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先づ国家を祈りて須(すべから)く仏法を立つべし。」とある。
もちろん、これは「客人」つまり法然の側の論議の主張を話された箇所であることはいうまでもない。(「立正安国論」は主人と客人の対話形式で書かれているからだ)
上掲載文の意味を簡単に説明すると、戦争がもし起きたのならば、皆さんが拝んでいる御本尊も焼けてしまう。だから、天下泰平国土安穏が先ず大事なのだ。これを先ず祈るべきである。そうでないと戦争で信仰もできなくなってしまう。つまり、創価学会の「世界平和」の運動路線や「不戦の誓い」というのは、このような仏法の法ではない法然という人の誤れる解釈を背景にして押し出されてきたものだ。「邪正を弁(わきま)ふること無」く、「仏法の説を見ず」して、「法主人従」の格を主従転倒させてしまい、仏法が破壊されてしまったのである。
つまり彼らは、「経を下し僧を謗ずること」によって、法然の立議である選択集の「捨閉閣抛」(しゃへいかくほう)を結果的には演じ念仏の無限地獄を実現させてしまったのである。それが広島であり長崎であり、今回の福島であったと考える。
問題は、福島の放射能汚染・被爆のことだが、これは戦争によって起こったものではなく、戦争とは無関係に起こったということである。戦争が起こることで核が使用され放射能汚染が起きたのではないのである。
「不戦の誓い」とか世界が平和であって戦争が無ければ、「原発の平和利用」には放射能被爆の危機はないとする考えを見事に裏切ったのが福島の事件であった。
現在の創価学会・公明党の考えとは異なって、戸田の原水爆に対する思想には軍事利用は悪であるが平和利用は善だとする考えはなかったのではないか?
原子(アトム)に軍事利用と平和利用の二つを立ててみせて、これを分離することで原爆の持つ本質である放射能汚染つまり被爆だが、これを許してしまったのには、後の創価学会の池田大作氏などの、「不戦の誓い」等に見られる原発の平和的利用を支持するための解釈的な方向転換があったのだと考えられる。
政治家や科学者でも原発基地がなぜ危険なのかは福島原発事故を迎えてからでしか本当に理解できなかったようだ。日本には原爆の悪魔性を哲学的かつ宗教的に説明した者は少ないために、戸田城聖の原水爆禁止宣言の先見性に比し、それを後継できなかった後の創価学会や公明党などの思想的な乖離が非常に残念に思えるのである。