2016年5月29日日曜日

念仏が悪人を選ぶ「悪人正機」説  親鸞思想の機情・機根への偏執

親鸞の「悪人正機」説は、小情況を作ってそこに人間を押し込み、悪人・愚人の不遇な境遇に無理やりに人間を収斂させて、それを自覚させることで悪人こそが救済できる機情・機根であると「悪人正機」説を立てるわけだ。教えを限定化して、小情況的共同体の教団の「なか」に人間の一部特殊な機情・機根に落とし込むことで、「相対的感情」の「ルサンチマン」からの解放をこの世で「往生」を演じてみせて、それが他土世界での「成仏」の予証あるいは人々の不安救済に確信を与える信を強めることになると考えた。この欺瞞の救済が親鸞の「思想」である。この世での「往生」は集団的な共同体でのパルタジェ「分け合い」に基づくキリスト教的精神に相似している。それは他者への愛であって、偽って現じてみせた慈悲(悲母の愛)だともいえるが、そこには厳父の慈愛の教えはない。仏法というのは悪人の心を説くのではなくて、仏の法を学ぶのである。「依法不依人」の格が法然や親鸞には理解できてなかったということである。そこに独自の悪人の心を正機としてそれに合わせた念仏宗を立てたわけだ。だから機情・機根に偏執した念仏というしめっぱい宗教だというのである。

悪人を集めてきて、「詐(いつは)つて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべし」(「聖愚問答抄 下」(平成新編 日蓮大聖人御書 日蓮正宗総本山 大石寺発行 405頁。日蓮大聖人御書全集 創価学会発行 497頁)と、日蓮大聖人は、念仏者たちが大乗を説かずして、法の高低ではなくて、悪人という人の選択に偏執して、吝(けち)な出し惜しみをしていると批判しているのである。

経典の力が大きければどんな人でも救えるわけで、そこでは「法華経」 などは女性だと言って他の経典の様に嫌わないし頭が良すぎる知識人だといって、また悪人の犯罪人だといって人選びをしないのである。

人間は「相対的な存在にすぎない」のではなくて、絶対に対する相対した存在の悪人でも愚人でもないのである。まずそういうふうに人間存在のあり方を、機情・機根を「縮小化」して、そこに「押し込め」てしまうことが、誤った念仏という宗教を生むことを準備するのである。

何故、親鸞はこんな悪人を選んだり小情況の団体の中に救済の可能性を見せたりするのかだが、その答えは簡単だ。つまり親鸞の教えには大状況での多くの異なる苦悩や煩悩を持った人々や知識人や菩薩界の二乗と呼ばれる人々や、さらには、社会・国家全体は救えないという救済理論での限界があるからである。親鸞の教えは、この意味で大乗ではなく小乗的な教えだと言える。

しかも、現実社会の変革など親鸞自身が否定していることからも、他土の西方十万億土を想定し、この世で救われない人々の機情・機根を束ねて悪人・悪機一つに選び限定化する念仏専修での洗脳のことで、ある種の「成仏」ではない「往生」の世界感覚を、仏法での「成仏」のレファレンスとして利用することで、悪人・悪機の人々に希望への確信を与えようとしたのかもしれない。それは念仏の「往生」と、仏法の「成仏」をトリックした誤魔化しの誘因法である。其の行き先は全くこの二つは異なるのである。「法華経」では現実社会の変革へと向かうが、念仏では西方十万億土の阿弥陀仏の架空の世界へ連れ去られるのである。

あるいはそのように人々の機情・機根を親鸞の思想の枠内に落とし込むことで、悪人・愚人と総ての人々を見立てることにより、親鸞自愛の念仏経典の低さに世界を合わせることを可能にしようとしたのかもしれない。つまり世界は、迷いから迷いの無間地獄へと立ち「往生」することになるのだ。しかしそれは仏教でいう「成仏」ではないのである。

法然・親鸞らの念仏の救済は、人々の心を高めて救う教えではなく、その逆で、堕して救おうとする教えなのだ。その為に師弟共々に堕地獄の根源となっていくのである。現実の社会から眼を逸らさせるある種の往生世界への逃避のトリック思想といえるだろう。