人間の「居場所」のことで、つまり私たちの生きる世界観のことで気になることが最近あった。今、フランスでも中国人社会の旧正月を祝う祭りがあって、そのためにスーパー・マーケット等も中国食品特別セール等をやって一種クリスマス・セール的な様相を呈しているのです。私の通っている中国語教室でも、町の人々を招待するのに、旧正月を祝った中国語の歌を唄うことになってその歌を練習したのです。また会場に展示する為に中国語の絶句の詩文を筆で大きく書いた。詩文は「有量才有福,量大福就大。天不生无用之人,地不长无根之草」というもの、歌の歌詞は「恭喜恭喜 每条大街小巷,每个人的嘴里 见面的地第一句话,就是恭喜 恭喜 恭喜恭喜恭喜你呀 恭喜恭喜恭喜你。 恭喜发财!」というものでこれには大変の驚かされたわけです。
これだと人間は天地の間にしか生きられないことになってしまう。なにか非常に儒教的な現世肯定の世界観になってしまうわけで、中国社会だけでなく日本にもこのような世界観があるのかもしれない。つまりこの世の中に生きている者というのは天によって生まれた者なのであるから、意味の無い者はいないので、役に立たない者は存在しない。或いは、才能のある者は財産を得て沢山の幸福を得ることが出来る。また地は根の無い者を長くは生きさせない。生きていけるのは大地に根があるものたちで、根が無いものはこの世には生きられないという意味のものであった。これは恐ろしいほどの現世の実力者肯定の論理であると思えるのです。
中国語教室で習ったこの思想は非常に現実的な功利主義の世界観であって、これは窒息した支配者の世界観としては都合の良いものであっても、弱者やはみ出し者や今でいうと難民など根を持たない外来者達、また才能を持たない人達には意味のない世界であり社会になってしまう可能性が高いのだと思う。そのことを中国語の教師にコメントしたのです。反応は当然のこと面白くなかったのでしょう、「そうは言ってもお金は大事だと思う」という答えだった。その答えこそは旧正月を祝うこの歌の心を言い当てていると思った。
何故これを問題にしたかというと、昔し読んだ日蓮大聖人の御書の中に あらゆる植物は根茎枝葉を持って生き栄えていくのですが、この一つでも欠ければ枯れてしまう。しかし、根茎枝葉を備え持っている者であっても法華経不信の者というのは、栄え生き延びることは無くて枯槁(ここう)の衆生となってしまう。法華経の題目を信じる人こそは、譬え根を切られても枯槁(ここう)の衆生とはならない。「法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず、枯槁(ここう)の衆生となるべし云云」「仰せに云はく、法華経を持ち奉る者は枯槁の衆生に非ざるなり。既に法華経の種子を受持し奉るが故なり。謗法不信の人は下種無き故に枯槁の衆生なり。されば妙楽大師の云はく「余経を以て種と為さず」と。」このように「御講聞書 一枯槁衆生の事」(日蓮大聖人御書 平成新編1840頁~1841頁)にあったからです。
ようするに、地上からはみ出た人達や社会に受け入れられないで破棄された根の無い人々でも、この妙法を信じることによって根を着けることができるという思想が、日蓮大聖人の仏教にはあって、これは当時の中国だけでなく日本にもあった人間の不幸や不平等を捨象した世界観を許す宗教や思想に対し、これを批判しまたこれに対抗するものではなかったかと私には思えたからです。