2011年5月31日火曜日

サルコジ政権の大臣=1年で5人辞職─ル・ペンが「性的暴力」「権力の濫用」訴える

フランス政府の大臣が一年で5人も辞任することになりメディアが騒いでいる。しかしこの辞任は左派系メディアの努力の賜物であったことはあまり書かれてないようだ。フランスのメディアは死んでなかったというだけで彼等は十分に満足なのである。5人のサルコジ政権下で辞任したというのは性暴力のジョルジュ・トロン氏。独裁者接待・供応のミッシェル・アイオマリ外務大臣。税金汚職のアラン・ジョヤンデ協力・フランス語圏担当相。葉巻で国費無駄遣いのクリスチャン・ブラン大パリ圏担当閣外大臣。献金疑惑のエリック・ブルト前労相である。





フランスの極右政党、国民戦線(FN)フロンナショナル党首のマリーンヌ・ル・ペン氏は、「サルコジ大統領でもフィヨン首相でもトロン氏の辞任を否定することはできない」と、「元市庁舎の女性職員から告訴されたトロン氏は市長も辞任すべきである」といっている。女性への性的暴力という「権力の濫用であり、偏らない調査をすべきである」と訴えている。


パリ南近郊のエッソンヌ県のドラベイユ市長で国家書記官であったジョルジュ・トロン氏は市庁舎で雇用した2人の女性へ性的暴行を行ったとして5日前に訴えられていたが、あっさりと辞任を表明した。コッペ国民運動連合(UMP)議長などはねばりが足らないと見て残念がっているようだが、明らかにサルコジの来年の大統領選挙のためであることは十分に予想できる。事件が大きくならないうちにつめばらを切らせた模様だ。ストロスカーン氏のニューヨークでの性的暴行疑惑がまだ裁判が本格的に始まってないのにメディアは犯罪を決めてかかったかのように騒いだ。しかしジョルジュ・トロン氏の場合にはメディアはそれほど重視しなかったのは政府の力によるところが一番多いようだが人物を小物化したとうこともあるようだ。新聞によっては被害者周辺の取材ルポでも市長という肩書きに光を当てていて、同氏が政府国家書記官であることには重点が置かれてない場合が見受けられた。

2010年7月4日に政府はアラン・ジョヤンデ協力・フランス語圏担当相の辞任を認めている。ジョヤンデ氏は閣外相で3月にマルチニックでのハイチ再建の講演に民間ジェット機を116500ユーロ(約1400万円)でチャーターして使用した。フランスの政治風刺と暴露の専門新聞カナール・アンシュネによって、その国家経費無駄使いが暴露されている。その後も南仏バール県のグリモウにある家を不法建築許可で建て増ししていた。

クリスチャン・ブラン大パリ圏担当閣外大臣もカナール・アンシュネに狙われて、同氏の嗜好品であった葉巻が国の経費で支払われていたことが暴露されている。その金額は10ヶ月で12000ユーロ(約144万円)であった。

ベッタンクール-ブルト事件は ロレアル社長で大富豪のリリアン・ベッタンクールさんのパリ西近郊のサルコジ大統領が市長をつとめたヌーイの邸宅から使用にが録音したテープを入手した仏インターネット新聞メディアパー(Mdiapart)者と「エックスプレス」とがはじめに暴露した。そのテープの中でベッタンクール氏とその管財人のパトリス・ド・マイストル氏とが政治家に与える贈与の話しが録音されていて、そこにサルコジ氏の名前やペルクレス(バレリー・ペクレス高等教育・研究相?)やブルト前労相の名前が出てきていて選挙資金の献金などを巡って問題になっていた。管財人マイストル氏のクレメンス社にはブルト氏の夫人フローランスさんがベッタンクールのために就職していた。そこに何らかの癒着関係が疑問視されて騒がれていた。ブルト氏はパリ北部のオワズ県のコンピィエーニュの市長でもあり国家財産であるコンピィエーニュ競馬場の土地を競売に付す事もなく私的な関与で売却したという疑いで今も裁判が続いている。

ブルト前労相は事件当時は財務相であり又同時に政権与党の国民運動連合(UMP)の会計係であった。つまりサルコジ氏の金庫番であった。そのために、この事件は政府そのもの足下を脅かすことになり、ついにブルト氏が辞任することになったが、まだ事件は収束したわけではない。

アイオマリ外務大臣(前内相、元防衛相)さらには法務大臣を務めた人だ。この大物大臣が辞職したのは父君のオリエ国会連絡相と両親を連れてチュニジアのジン・アビディン・ベンアリ大統領側近の企業家アジズ・ミルド氏の招待で、2011年の暮れから翌年新年にかけてジェット機つき豪華ホテルのチュニジア旅行を受けていたからだ。アイオマリ氏はこれを議会で否定しつづけたが最終的に認めるかたちとなって辞任となった。

自分の金で旅行をすればよいのだが、この時にチュニジア民衆には「アラブ諸国の春」が胎動していて民衆は独裁者ベンアリ大統領と戦っていた。そのベンアリの側近の接待にフランス国の大臣が供応して受けていたことがフランスの民衆も納得いかず許せなかった。サルコジ大統領のマグレブ諸国の独裁者批判やチュニジア民衆などへの共感や支援の発言というのはずっと後のことでこの時期にはフィヨン首相も年末年始をムハンマド・ホスニ・ムバラク大統領のエジプトで豪華ホテルに招待をうけている。またサルコジ大統領の講演原稿の書き手だともいわれるアンリ・ゲイノ国家秘書官はカダフィ大佐の国リビアのフランス大使館の友人を年末年始に訪問した。同氏は旅行は自費したといっている。その餞別の激励をサルコジ大統領から貰っていると音楽・芸術家に読者の多いアンロックチュプターブル誌は書いている。

サルコジ大統領は絶対に大臣を辞任させない。もし辞任があれば最後だからだともいっていた。そして現在は大臣の辞任が当たり前のようになってきた背景にはサルコジ大統領の戦略があと少しの期間、つまり2012年の大統領選挙までつなげればよいという判断に変わってきたのだろう。トロン議員の辞任はコッペ氏の発言を待つまでもなく余りにも早かった。

(参考記事)

Ministres: cinq départs en un an sous le feu de la polémique - Libération