2011年12月17日土曜日

きょうでチュニジア革命1周年、 「アラブ諸国の春」の原点、焼身自殺したブウアジジ氏を追悼

1年が過ぎようとしている。私のブログにこの 「アラブ諸国の春」の始まりを掲載したのは2011年1月6日が最初であった。それでも日本ではかなり早かった。誰も予測できない事件の進展であったが、旧宗主国のフランスなどもチュニジアのジン・アビディン・ベンアリ前大統領とその妻レイラ・トラベルジィの独裁者を認めた国交をしていた。フランスの外相・内相・防衛相と多くの大臣職を歴任したアイオマリ大臣、そしてその配偶者のオリオ大臣はマグレブ諸国との議会内友好協会の会長も務めていた。しかし彼らはベンアリ財閥の関係者からジェット機付の年末年始のクリスマス豪華家族旅行を受けてチュニジアを訪問していた。その最中にチュニジアのシディブジド(sidi bouzi)の行商青年モハメッド・ブウアジジ(Mohamede Bouazizi)氏が警察に尋問され行商の許可証を持ってないことから品物を取り上げられて罰金を科せられた。これを苦にして青年は焼身自殺をはかった。これが物価高騰や失業や職の不安定で苦しんでいた貧しい地区から暴動化して革命の道を開くことになった。このことで民主主義国家といわれてきたフランス側や西欧諸国のそれがぐらついていたことがわかった。またロシアなど独裁的民主国家にも、新しい民主主義を模索する上で 「アラブ諸国の春」同様に、計り知れない影響が起こっている。

この2010年12月17日にモハメッド・ブウアジジド(Mohamed Bouazizi)氏が焼身自殺をはかったのを 「アラブ諸国の春」の原点の日として記念する行事が組まれている。仏国営ラジオ・フランス・アンフォは朝の放送でこれにふれて解説しているので以下に記載しておきたい。

同ラジオのセリーヌ・バイダクールさんの司会で、シディブジ市からダイレクトでブルノ・カデェンヌ氏が現地取材して報告している。

-今日(2011年12月17日)チュニジア革命の第1回目の誕生日である。丁度1年前にベンアリ独裁政権に反対して蜂起の行動が始動し始めた記念すべき日である。

-シディブジ(sidi bouzi)の街が有名になったのは、行商青年モハメッド・ブウアジジ(Mohamede Bouazizi)氏が警察に行商の品物を取り上げられて抗議して自殺した。その行動が全てのチュニジア人を抗議運動に転じる引き金となった。簡単にその日はいったいなにが起こったのかを説明ください。

2010年12月17日、いまから1年前だ。モハメッド・ブウアジジは26歳であった。彼が歴史に入るのではない。生活の失望と侮辱が彼を恐ろしい焼身自殺に追いやった。そのころブウアジジ氏は果実と野菜の行商をしていた。

私はブウアジジを知っていた。私と同じようにこんな荷車で仕事をしていた。彼は野菜や果物を卸しから買って売る。金は借りていたので品物をうまく売ったら次の日に借金を返すという具合だった。

彼は市の警察との間に問題があった。タクシー乗り場でこの仕事をすることは許されなかった。警察は少し厳しすぎた。罰金を彼は食らった。これが最初であった。それは16日(木)で、また彼は仕事を始めた。今度は行商の品物を取り上げられてしまった。彼は政府官邸の方へ向かって歩いていき焼身自殺をはかった。それは彼の自由への犠牲であった。自由なくしてなんの人生があるのか?

-ブルノ、今日はブウアジジ氏の記念碑が立てれれるというがどうなのか?

記念のフェスティバルでは写真展示やコンサート、公式講演などが予定されている。チュニスの彫刻家に作品がモハメッド・ブウアジジ氏が焼身自殺を計った付近に昨日すでに国歌の斉唱と拍手の中で立てられた。作品は行商青年をシンボル化したものである。フェスティバル組織者のモハメド・アクミ氏に話してもらいましょう。

シンボル的なものである。不足しているのは、ブウアジジがベンアリやカダフィを転覆させたということだ。またアサドを倒すことになる。23あるうちの3つがすでに倒された。順番にすべて倒されていく。(笑いと喚声と拍手が周囲から湧き起こった)

-記念式典が行われるが、ブルノ、シディブジド市の多くの人たちの大きな失意があったことを忘れるわけにはいかないということですね。

革命はブウアジジの犠牲と他の人々の犠牲にもかかわらず、経済状況はシディブジドの街もチュニジアのほとんどが今も悲惨なものが続いている。シディブジドでは30%の失業率を記録している。失業している教師のリダ・アビディ(38歳)さんは多くの公約があっても実現されてないといっている。

私が恐れるのは革命が脱線して、以前と同じ状況に戻ることだ。人々は現実的なプログラムと数字を話さない。いつも約束はある。国を安定させるとかみんあ静粛にすべきだという。必要なのは現実的な公約で人々を静まらせるためであってはならない。例えば我々の犠牲になった地方だがほとんどなにもないといってよい。何も変わってない。

チュニジアの北とシディブジドなどの南部との格差は大きく、北の政府に南は忘れられているという。この感情が革命以来消え去ってないという。

シディブジドでビオ農業を営んでいるオジュデ・オシャミ氏は、もしこの緊張を解消できなかったのならば、まず政府が現実的に国内の地方に対する働きかけがなかったのならば、というのは今の政治を見るとシディブジドをいろいろと、豊饒性や欠乏や、いろいろと何でもすべて話すが、もし我々に何かを与えるとなると渋る。もし彼らがこのような反応を続けていれば、ある日、我々は地方主義のラジカルな分子になって出ていってしまうであろう。というのはこの地方の人々は地域のために闘おうという者が多いのです。それは普通でしょう。と凄いスピードでまくし立てた。

-ブルノ、シディブジドの街路ではペシミズムの行為があるのか?

そうではなくて、幸せなことに革命のフェスティバルでプロジェクターの証明が当てられて、シディブジドの人々は 「アラブ諸国の春」の引き金を演じたことに誇りを感じているのです。一方、多くのチュニジア人は、1年たっても安定期の混迷が続いていているが、憲法議会の制定と先週になされた新大統領の指名で、それは終了することを希望している。

バドリエ・シュミエ氏は地理歴史学の修士の学歴を持ち現在失業中だが彼は楽観的である。

我々チュニジア人はもう1年間を革命の中で生活してきた。革命の各段階で我々は最良の道にいることを確認してきた。我々はみんなシディブジドに経済危機があるのを認知していが、我々は全ての障害物の乗り越えられると考える。新大統領の選出と憲法議会で制定で状況は良くなると大きな希望がもてる。

聞こえている歌は、チュニジアで有名な歌手のピシコ・エムのもので、1年前にチュニジアの革命を歌ったもの。

チュニジアのシディブジドからダイレクト放送で。2011年12月17日08時45分、仏国営ラジオ・フランス・アンフォから

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