2010年12月14日火曜日

ベンバルカ事件 フランス20世紀最大の謎を解く 「国家機密資料が空に」

 9日、バシル・ベンバルカ氏は父親メヒディ・ベンバルカの45年前の謎の失踪事件の進展を知りたいとパリのパトリック・ラマエル予審判事を訪問した。それはこれまで父親に関する484点の事件資料は国家機密として国家外部機密室(DGSE)に保管されていた。ところが、この夏7月29日と8月3日の家宅捜査で機密資料が押収された。資料は10月始めに国家防衛機密諮問審議会(CCSDN)によって開示されていたからだ。

 フランスにおける20世紀最大の謎とされるベンバルカ事件解明の鍵が開かれたかに見えた。しかし、予審判事の受け取った144点の資料は調査には何の役にも立たないものばかりで、340頁の資料には白紙に「Z」文字(怪傑ゾロのZだとアルザス紙は書いている)の線が引かれていて、「防衛相の決定で開示禁止」と書かれてあった。家族は「いったい誰がこんなひとを馬鹿にしたことをしたのか?」と、憤慨している。
      
 フランス国営放送・テレビA2は、その白紙の頁を映し出して報道してみせた。資料によっては日付が消されているものもある。家族は悔しさを隠すことができないといっている。ラマエル予審判事も怒っていて同じ思いだと話す。

 家族側弁護士モーリス・ブッタン氏によると、判事は「動かされたのでは」と推測していたと語っている。

 家族の求めるものは「父親の死がどういう状況で起こったのか?父親の遺体はどこにあるのか?を知りたい。これだけを望む」といっている。母親が75歳を過ぎているからだという。そして「フランス政府の態度には民主主義の尊厳が感じられない」と嘆いて、憤慨している。


 家族の住む現地紙の「ラ・アルザス.fr」は、 「メヒディ・ベンバルカの家族は妻もその子供5人もフランス東部のベルフォーの町に住んでいて、父親の失踪の真実を現在も追及している。家族は明らかにこれは誤魔化しで、「国家の意思という名による新たなる司法妨害の企てだ」と見ていると書いている。

 11月24日、判事はこれを明快にするよう説明を求めて新任のアラン・ジュッペ防衛相に手紙を送った。普通ならば返事は直ぐ来るのだがいまだに何の音沙汰もないといっている。

 家族の求めるものは「父親の死がどういう状況で起こったのか?父親の遺体はどこにあるのか?を知りたい。これだけを望む」といっている。そして「フランス政府の態度には民主主義の尊厳が感じられない」と憤慨している。

 メヒディ・ベンバルカ社会主義者でモロッコ王ハッサン2世の体制に反対していた。1966年のハバナでの第三世界の革命運動会議開催の準備を担当していた。植民地解放映画の企画で2人の映画人に会うために1965年10月29日にパリを訪問し、セーヌ左岸のサンジェルマン・デプレ大通りにある飲食店リップに行った。その店先で12時30分頃に2人の秘密警官らに尋問されて車でどこかへ連れ去られたらしい。

 ジョルジュ・フィゴンという者が1966年1月10日に「私はメヒディ・ベンバルカの殺害を見た」と証言したが、その1週間後に自殺している。またモロッコの内務大臣で秘密警察局長のウフキール将軍は反体制者であったメヒディ・ベンバルカを追っていた。同大臣はベンバルカの来仏直後にフランスにやってきて11月5日にモロッコへ帰国していた。

 フランスは国際指名手配を出したが同大臣も自殺している。ベンバルカはそのまま行方不明になってしまった。