2014年9月25日木曜日

パリ市に流れ込む唯一の川 ビエーブルの水源を訪ねて メンヒルとドルメンの「知の考古学」



ニッシム・メルカド(Nissim Merkads)の作品「Meta」
(写真撮影は筆者)
ビエーブルの川はパリ市に流れ込む唯一の川として知られている。パリのノートルダム寺院対岸のセーヌ川左岸に土管から今は放水されている。もうひとつは分流してオーステルリッツ駅近くにある公園の中の池に流れ込んでいる。中流のアントニー市近くで流れを東から北に変えてイタリア広場の方向へ流れ、17世紀ごろにはその近くにあったゴブラン工房でこのビエーブルの水が使われていた。ビエーブルの水源を訪ねて見ると以外にもパリ西部近郊の新興都市サンカンタン・アン・イブリーンヌの駅の近くにこれを記念したモニュメントが作られてあった。建築家はニッシム・メルカド(Nissim Merkads)だ。1935年にソフィアに生まれた。この作品は、メルカドによると隕石が天空から地上に落下してビエーブルの水源ができたという神話的なイマジネーションなのだといっている。夢があって面白い。

丸い円盤は黒い大理石でできていて直系が35メートルある。その円盤を12本の柱が支え中央に丸い穴があって水がそこから下に流れ落ちる。円盤の下は一種の地下の洞窟になっていて祈りの空間となっている。

実は、この近くには文科系大学の別の校舎と図書館がある。その庭のはずれを歩いていると木立の中に隠れていて気がつきにくいのだが、ガローロマンよりも以前に水の精や山の精を拝んだ自然崇拝時代の人類が地上に住み始めたころの列柱(メンヒル)とその上に乗った石盤(ドルメン)の遺跡が朽ち果てて残っていた。これを発見した私は本当に驚いた。

メルカドはこういう古代の遺跡を象徴的に現代化して彼の作品としたのだと思うが、現代の知のラビラントを解き明かす大学の間を流れてゆくビエーブルの川の水源にこの作品を作ったのは意味が深いのだと考えるようになった。それはこの土地が文明の知を引き受けるパリ市へと流れ込む唯一の川の水源であるからだ。

テーマは水と鉄筋コンクリート、光、音であり都市の建造物として作られた。いまはその隣に予定になかったベルサイユ・サンカンタン大学の医学部が侵入して彼の計画していた半円形の庭は削られてしまった。

しかしこの円盤の後方にはルイ14世がベルサイユ宮殿の庭の噴水の水を集めるための貯水池として人口の湖がつくられていて、これが今のサンカンタンの湖だ。そのとなりにパリ日本人学校があるのも東洋の文明を意識すると何か私には不思議に思えるようになってきた。

このサンカンタンの湖の岸を冬に散歩すると氷が湖面を覆っている時がある、ところどころに大きな穴があいている。湖の底から暖かな水がいくつも湧き出ていて、「知の考古学」が始まっているようにも思えるのだ。



案内の看板には円盤状の黒い大理石は、ビエーブルの
水源が隕石が天空から落下して生まれた象徴としたとある。
背後の白い建物は医学部(写真撮影は筆者)
南側から(写真撮影は筆者)
ビエーブルの小川


少しづつ水量が増えていく

水源はいたるところにあり一つとは限らないようだ。
この辺一帯が水が湧き出ている。
ゴブラン水源」となずけられた
ビエーブル川の水源の一つ


昔は飲料水として使われていた。(写真撮影は筆者)




親の時代からここの「ゴブラン水源」脇に住んいるという高齢の男性に質問できた同氏は庭の垣根の手入れをしていた。自分の母親の時代は水道がここにはなくて、ここの湧水を飲んでいたのだと話している。この辺一帯が湧水が出ていて冬には植物が枯れるので水の湧き出るのがよくわかるのだと話した。

この水の湧出る一帯がビエーブル
の水源地で、パリのセーヌ川に流
れ込むまで36キロとある。

ビエーブルの水源を指した地図