→本来漁業権は陸の入会権と同じく、その山や土地、海、川を利用する地域に生きる人々の身「総有」の権利である。
海や山や土地や川は本来誰のものでもない。その地域の資源を地域に生きる農民や漁民が自分たちの共同のものとして闘いとってきた権利なのである。それは生存権そのものといってもよい。
以上のご指摘ですが、これは非常に大切な考えだと思います。今、これを意識して主張することが必要になっているのではないでしょうか。
中国の古代の話しらしいのですが、ある時に、二人の国を嫌った青年が山奥深くに隠れて蕨(わらび)を採ってそれを食してほそぼそと暮らしていたので す。そこに国の使者が現れて言うには、いまあなたが食べている蕨は王の所有物であると。二人の隠士はそれならば蕨を食べないといって、ついに死んでしまっ たという話しです。この話しを30年ほど考えてきましたが、その意味が解けずに謎のようになっていたのです。
それでわかった事は、おそらくは所有権の発生みたいなことです。使者というのは国の権力のことでこれが未開の山奥や海辺にまで入って来て支配をもく ろみ、本来誰のものでもない自然がある権力者、王とか政府という支配のシステムを経済的にまた政治的に押し付けてきて組み込もうとする。この王の支配権を 拒否して蕨をたべなくなって死んでしまった二人の隠士というのは、実はこの王の支配権の及ぶのを山奥で拒絶して受け入れなかったということを意味していた のではないかと。
これと同じ思想がコミニューンみたいな共同体思想のなかに引き継がれているのかもしれない。これは近代化とは逆の捉え方で無価値なものだとされがちだが、実は人間の生きる世界や場を考える上で非常に重大な意味をもっているはずだ。
そこには政治権力みたいな国権と対立する自然権に生きようとする二人の青年の対抗的な思想があったのかもしれないと想像するのです。