2011年8月9日火曜日

広島・長崎はパリ・福島

 原爆は福島原発事故で、「広島・長崎=福島・パリに」


広島と長崎に原爆が落ちなかったのならば日本の戦争は終結しなかったかどうかの論議はここではしない。しかし、2011年3月11日に発する福島原発事故の不幸は、この原爆が日本に落ちたことと深く関係していた。それは両者がともに放射能の被爆の問題だからである。一方は原子力の軍事利用であり他方は原子力の平和利用と呼ばれている同じ危険を内包するシステムであるからだ。核兵器廃絶はその軍事的側面を問題にした平和運動論と結びついたが、被爆や被爆二世を問題にする筋は原発の平和利用の美名の陰にその危険性が長らく隠されてしまっていた。が、福島の原発事故を境にしてその危険性が容易に理解されたのだと思える。(パリ=飛田正夫)

原爆の放射能被爆の筋というのは日本の平和論や核反対運動では次第に消滅してしまっていったのではないかということで、つまり広島や長崎の原爆が核廃絶や核拡散防止という核の軍事的利用への反対運動になることで、核のもう一方の危険を見落としてしまったように思える。

3月13日、ヨーロッパ・エコロジー・緑の党のエバジョリ欧州議員らは世界人権宣言が発せられた、エッフェル塔の対岸の丘に立つシャイヨー宮殿前で、「福島はパリだ」「原発はいらない」と書いたバンドロールを掲げて連帯の抗議集会を開いた。これがフランス国営放送A2で紹介された。このときに初めて「広島・長崎は福島でそれはパリ」の運命なのだと認識させられた。

これで「原子力が安全でないことが証明された」。「福島はパリなので」あって危険な原子力発電をやめるべきだと訴えたエバ・ジョリ欧州議員はさらに、「専門家がいう、原子力は統御できるという意見は、今日、誰も信じられなくなった」と発言している。

またパリのEELV副書記長の ボーパン議員は「もう遅すぎた。今日、フランスにある34個の原子炉は管理基準を満たしてなくて、信頼できるものではない。つまり安全機能が十分に働かな いということだ」と述べている。

そこで叫ばれていたのが「福島はパリだ」というものである。これはパリ市民が福島市民の原発事故下の心境に連帯しようとするものだが、同時に日本と共にフ ランスは原子力開発では世界の指導的な位置にあリ両国が原発を容認する社会と政治であることを表現していて、共に危険な放射能の危機に悩まされているとい うことである。

同時にまたそれは、日本が世界で唯一経験した広島と長崎に投下された原爆の放射能につながっている。福島地震の津波と原発基地の事件は「福島・パリ=広 島・長崎」という世界的な広がりの意味をもっているわけだが、ひとまずは原発基地の脅威を共有する我々の運命といういうことで、まさに「福島はパリ」その ものなのである。

それにしてもどうして日本は原爆被爆国としてその放射能の危機と恐怖を忘れて原発基地を許してきたのだろうか。電気をつくるはずの原発基地が電気が停電し て冷却できず、危険な放射能は外に漏れだし汚染が酷くなってしまった。いま福島の原子炉は爆発寸前の6度のレベルにまでそのときなっていた。

日本は、「広島・長崎」で落とされた原水爆弾の放射能の恐怖と原発基地で起こる放射能漏れとは別なものだという漠然とした認識があったのではないだろうか。福島の原発基地の稼動そのものが、「広島・長崎」で爆発した原爆と相似するものだとは考えられなかったのだ。

原発基地は原子爆弾とは違うのだという誤った認識に支配されていたとしかいいようがないのだ。安全対策の不完全な原子力施設はすでに爆発した原爆と同じだということがわからなかったのだ。

だから「福島」は、今後は世界中の国々にある原子力発電基地は、すべてリスクを回避できない不完全なものとして、「爆発しつつある原爆」を抱えた社会であることを教えることになった。

原子力発電は頭上に釣り下がった放射能のデモクラスの剣などではなくて、すでに降下された剣なのである。 
日本には多くの原爆反対を訴える団体がある。わたしの以前関係してきた宗教団体の原爆に対する取り組みの認識だけにしぼって概観してみると、明らかに、原爆の放射能の危機の側面がしだいしだいに消えてしまって、核軍縮や核戦争反対の平和運動論になってしまっている。核兵器に対する反対が政治的な平和運動となることで、核の平和利用という側面が暗黙のうちに容認されたわけだ。最近では国連などの国際的舞台で核戦争廃絶を訴えることが平和運動だと認識させられてきて、ますます原爆兵器の放射能の危険の側面が忘れられてきていた。

創価学会の第二代会長戸田城聖氏は昭和32年9月に横浜の三ツ沢競技場で「原水爆禁止宣言」と呼ばれる宣言を遺訓の第一だとして当時の青年部に残している。その中で、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」(戸田城聖先生 講演集 創価学会 昭和36年10月12日発行 347頁)といっている。これが以後の創価学会の平和運動の基本になっている。ここでは原爆の危機は「核」であって、必ずしも核「戦争」を指してはいなかったのではないか。

「平和運動の原点、広島と長崎の旗手たち」という一文が収められた「民衆パワーの奔流 ドキュメント 創価学会青年部 松本泰高著 新英出版 昭和58年5月31日 頁90」には、創価学会の平和運動が反戦出版で被爆者体験を扱っていることが書かれている。広島で「被爆体験を聞く会」で活躍していた女性幹部の話しとして、「私自身、母が思い出したくないこともあって、被爆二世ということをほとんど忘れていた。でも、それではいけないという風に私の意識が変わってきた」とある。わたし自身は、ここに原爆に対する一番純粋で強いインパクトを感じるのだが、以後この強烈な原爆の放射能の第二世代という危機意識が次第にうすれてゆく転換点を示す文章を91ページに見ることになる。「平和運動は、単なる被害者意識だけから出発したのでは運動の広がりに限界がある気がするからだ」 これを読むと放射能の被爆危機の一面が平和運動の広がりの中で窒息したことがわかる。

創価学会では会長の発言は大事なので、次に池田大作氏の考えを引用しておくと、「とりわけ各時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争の否定であります。たとえ核兵器を使用しない戦争であっても、それがいつ核戦争にエスカレートするかわらない以上、不戦こそ人類生き残りの不可欠の条件だといわねばなりません」(昭和59年1月26日「聖教新聞」掲載の「世界不戦」への広大なる流れを 、と題した講演(広布と人生を語る 第5巻 所収 昭和59年6月6日 223頁 聖教新聞社)と語っている。

 つまりここでは、池田氏は「不戦」が実現すれば核の脅威は無くなると勘違いしてしまったようだ。


ここでは核の平和利用での原発の危機が消え去ってしまっているだけでなく、原発での放射能の危機は眼中になかったようだ。

戦争とは無関係に、地震などの災害で原発事故が起こり、原子爆弾と同じ放射能の危険な結果をもたらすことが認識されてないわけだ。

公明党の原発に対する認識も池田氏と同じかそれに順ずるものであろう。

最後に、近年の池田氏の講演で同氏の師である戸田氏の「原水爆禁止宣言」にふれて書かれた文の解説があるのでこれを引用しておく。「核兵器廃絶へ民衆の連帯に」学ぶ(「第三文明」2009年(平成21年)11月号 88頁)という文だ。筆者の名前はない。

ここでは戸田氏の問題意識であった原爆の核への危機感は大きく変化していることがわかる。核軍縮と核拡散防止論に終始しているからだ。2011年3月の福島原発事故が核の平和利用で起こったわけだが、池田氏のこの講演に関する解説によると、原発基地の平和利用での放射能の危険性の認識は無くて、安全視しているのかどこかに消滅したようで一言も論じられてない。

text

書き込みました。

書き込みと同時に終了するときはチェック!


原爆は福島原発事故で、「広島・長崎=福島・パリに」



[4] 飛田正夫




一晩考えて見ました。

ご指摘の通り公明党が自民党とともに原発を推進してきたことが福島の伏線になっていると考えます。自民党も他党も反原発に深い思想的な根拠はあるとは思えません。原爆禁止というのは本当はこれは創価学会・公明党の生命線で仏教的にも死守しなければならなかったものです。

この福島の帰結と創価学会の思想を切り離して考えることは私には大変に困難なことだと思うようになっています。

広島と長崎の放射脳は米国の原爆投下でおきましたが、もう一つの放射脳の爆発は福島原発で、これは反対すべきはずの創価学会の思想の転向に淵源があると見ます。すくなくとも思想にはそういう責任があるのだと考えます。

知悉な原稿ですが一応これはこのままにしておいて、別に新たな記事を書くことにしたいと思います。

よろしくお願いいたします。


飛田正夫








(2011/08/11 14:02)


[3] 

飛田正夫様

創価学会の核認識は、公明党が自民党とともに原発を推進してきたことと関連して興味深い指摘ですが、それより「広島・長崎は福島でそれはパリ」の運命なのだという認識に注目したいと思います。そこに焦点を絞った原稿にまとめていただけないでしょうか。
緑の党議員の3月の発言だけでなく、8・6のヒロシマ、8・9のナガサキもめぐるさまざまな動きなどはなかったのでしょうか。パリならではの情報を期待しています。

(2011/08/10 10:30)


[2] 飛田正夫

原爆は福島原発事故で、「広島・長崎=福島・パリに」


広島と長崎に原爆が落ちなかったのならば日本の戦争は終結しなかったかど うかの論議はここではしない。しかし、2011年3月11日にはじまる福島原発事故の不幸は、この日本に落ちた原爆の忘却されてきた意味を再認識させるこ とと深く関係していた。それは両者がともに放射能の被爆の問題だったということである。一方は原子力の軍事利用であり他方は原子力の平和利用と呼ばれる同 じ危険を内包するシステムであった。核兵器廃絶はその軍事的側面を問題にして平和運動と結びついた。また、放射能被爆や被爆二世を問う流れは原発の平和利 用という煙幕の仕掛けの陰にその危険性が長らく隠されてしまった。福島の原発事故を境にして平和利用の正体がやっと理解されはじめてきたのだと思え る。(パリ=飛田正夫)


原爆の放射能被爆の筋というのは日本の平和論や核反対運動では次第に消滅してしまっていったのではないかということで、つまり広島や長崎の原爆が核廃絶や核拡散防止という核の軍事的利用への反対運動になることで、核のもう一方の危険を見落としてしまったように思える。

3月13日、ヨーロッパ・エコロジー・緑の党のエバジョリ欧州議員らは世界人権宣言が発せられた、エッフェル塔の対岸の丘に立つシャイヨー宮殿前で、「福 島はパリだ」「原発はいらない」と書いたバンドロールを掲げて連帯の抗議集会を開いた。これがフランス国営放送A2で紹介された。このときに初めて「広 島・長崎は福島でそれはパリ」の運命なのだと認識させられた。

これで「原子力が安全でないことが証明された」。「福島はパリなので」あって危険な原子力発電をやめるべきだと訴えたエバ・ジョリ欧州議員はさらに、「専門家がいう、原子力は統御できるという意見は、今日、誰も信じられなくなった」と発言している。

またパリのEELV副書記長のボーパン議員は「もう遅すぎた。今日、フランスにある34個の原子炉は管理基準を満たしてなくて、信頼できるものではない。つまり安全機能が十分に働かないということだ」と述べている。

そこで叫ばれていたのが「福島はパリだ」というものである。これはパリ市民が福島市民の原発事故下の心境に連帯しようとするものだが、同時に日本と共にフ ランスは原子力開発では世界の指導的な位置にあリ両国が原発を容認する社会と政治であることを表現していて、共に危険な放射能の危機に悩まされているとい うことである。

同時にまたそれは、日本が世界で唯一経験した広島と長崎に投下された原爆の放射能につながっている。福島地震の津波と原 発基地の事件は「福島・パリ=広島・長崎」という世界的な広がりの意味をもっているわけだが、ひとまずは原発基地の脅威を共有する我々の運命といういうこ とで、まさに「福島はパリ」そのものなのである。

それにしてもどうして日本は原爆被爆国としてその放射能の危機と恐怖を忘れて原発基地 を許してきたのだろうか。電気をつくるはずの原発基地が電気が停電して冷却できず、危険な放射能は外に漏れだし汚染が酷くなってしまった。いま福島の原子 炉は爆発寸前の6度のレベルにまでそのときなっていた。

日本は、「広島・長崎」で落とされた原水爆弾の放射能の恐怖と原発基地で起こる放射能漏れとは別なものだという漠然とした認識があったのではないだろうか。福島の原発基地の稼動そのものが、「広島・長崎」で爆発した原爆と相似するものだとは考えられなかったのだ。

原発基地は原子爆弾とは違うのだという誤った認識に支配されていたとしかいいようがないのだ。安全対策の不完全な原子力施設はすでに爆発した原爆と同じだということがわからなかったのだ。

だから「福島」は、今後は世界中の国々にある原子力発電基地は、すべてリスクを回避できない不完全なものとして、「爆発しつつある原爆」を抱えた社会であることを教えることになった。

原子力発電は頭上に釣り下がった放射能のデモクラスの剣などではなくて、すでに降下された剣なのである。

日本には多くの原爆反対を訴える団体がある。わたしの以前関係してきた宗教団体の原爆に対する取り組みの認識だけにしぼって概観してみると、明らかに、原 爆の放射能の危機の側面がしだいしだいに消えてしまって、核軍縮や核戦争反対の平和運動論になってしまっている。核兵器に対する反対が政治的な平和運動と なることで、核の平和利用という側面が暗黙のうちに容認されたわけだ。最近では国連などの国際的舞台で核戦争廃絶を訴えることが平和運動だと認識させられ てきて、ますます原爆兵器の放射能の危険の側面が忘れられてきていた。

創価学会の第二代会長戸田城聖氏は昭和32年9月に横浜の三ツ沢 競技場で「原水爆禁止宣言」と呼ばれる宣言を遺訓の第一だとして当時の青年部に残している。その中で、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に 起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを 使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」(戸田城聖先生 講演集 創価学会 昭和36年10月12日発行  347頁)といっている。これが以後の創価学会の平和運動の基本になっている。ここでは原爆の危機は「核」であって、必ずしも核「戦争」を指してはいな かったのではないか。

「平和運動の原点、広島と長崎の旗手たち」という一文が収められた「民衆パワーの奔流 ドキュメント 創価学会 青年部 松本泰高著 新英出版 昭和58年5月31日 頁90」には、創価学会の平和運動が反戦出版で被爆者体験を扱っていることが書かれている。広島で 「被爆体験を聞く会」で活躍していた女性幹部の話しとして、「私自身、母が思い出したくないこともあって、被爆二世ということをほとんど忘れていた。で も、それではいけないという風に私の意識が変わってきた」とある。

以後この強烈な、原爆の放射能の第二世代という危機意識が次第にうす れてゆく転換点を示す文章を91ページに見ることになる。「平和運動は、単なる被害者意識だけから出発したのでは運動の広がりに限界がある気がするから だ」 これを読むと放射能の被爆危機の一面が平和運動の広がりの中で窒息したことがわかる。

創価学会では会長の発言は大事なので、次に 池田大作氏の考えを引用しておくと、「とりわけ各時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争の否定であります。たとえ核兵器を使用しない戦争であって も、それがいつ核戦争にエスカレートするかわらない以上、不戦こそ人類生き残りの不可欠の条件だといわねばなりません」(昭和59年1月26日「聖教新 聞」掲載の「世界不戦」への広大なる流れを 、と題した講演(広布と人生を語る 第5巻 所収 昭和59年6月6日 223頁 聖教新聞社)と語っている。

つまりここでは、池田氏は「不戦」が実現すれば「核」の脅威は無くなると勘違いしてしまったようで福島の不幸は予想外となった。

ここでは核の平和利用での原発の危機が消え去ってしまっているだけでなく、原発での放射能の危機は眼中になかったようだ。

戦争とは無関係に、地震などの災害で原発事故が起こり、原子爆弾と同じ放射能の危険な結果をもたらすことが認識されてないわけだ。

公明党の原発に対する認識も池田氏と同じかそれに順ずるものであろう。

最後に、近年の池田氏の講演で同氏の師である戸田氏の「原水爆禁止宣言」にふれて書かれた文の解説があるのでこれを引用しておく。「核兵器廃絶へ民衆の連帯に」学ぶ(「第三文明」2009年(平成21年)11月号 88頁)という文だ。筆者の名前はない。

ここでは戸田氏の問題意識であった原爆の核への危機感は大きく変化していることがわかる。ここでは、「核」の脅威ではなくて核軍縮と核拡散防止の「兵器」 の政治論に終始しているからだ。2011年3月の福島原発事故は核の平和利用で起こったわけだが、すでにこの時に原発の持つ「核」の危険性が池田氏の意識 の視野からは抜けてしまっていたわけだ。

池田氏の講演をレジュメした解説を見ると、原発基地の平和利用での放射能の危険性の説明は皆無で一言も論じられてない。すでに戸田城聖氏の原水爆禁止宣言の遺言は継承されてなく改変されてしまったことがわかる。




(2011/08/09 17:57)


[1] 飛田正夫

原爆は福島原発事故で、「広島・長崎=福島・パリに」


広島と長崎に原爆が落ちなかったのならば日本の戦争は終結しなかったか どうかの論議はここではしない。しかし、2011年3月11日に発する福島原発事故の不幸は、この原爆が日本に落ちたことと深く関係していた。それは両者 がともに放射能の被爆の問題だからである。一方は原子力の軍事利用であり他方は原子力の平和利用と呼ばれている同じ危険を内包するシステムであるからだ。 核兵器廃絶はその軍事的側面を問題にした平和運動論と結びついたが、被爆や被爆二世を問題にする筋は原発の平和利用の美名の陰にその危険性が長らく隠され てしまっていた。が、福島の原発事故を境にしてその危険性が容易に理解されたのだと思える。(パリ=飛田正夫)


原爆の放射能被爆の筋というのは日本の平和論や核反対運動では次第に消滅してしまっていったのではないかということで、つまり広島や長崎の原爆が核廃絶や核拡散防止という核の軍事的利用への反対運動になることで、核のもう一方の危険を見落としてしまったように思える。


3月13日、ヨーロッパ・エコロジー・緑の党のエバジョリ欧州議員らは世界人権宣言が発せられた、エッフェル塔の対岸の丘に立つシャイヨー宮殿前で、「福 島はパリだ」「原発はいらない」と書いたバンドロールを掲げて連帯の抗議集会を開いた。これがフランス国営放送A2で紹介された。このときに初めて「広 島・長崎は福島でそれはパリ」の運命なのだと認識させられた。

これで「原子力が安全でないことが証明された」。「福島はパリなので」あって危険な原子力発電をやめるべきだと訴えたエバ・ジョリ欧州議員はさらに、「専門家がいう、原子力は統御できるという意見は、今日、誰も信じられなくなった」と発言している。

またパリのEELV副書記長のボーパン議員は「もう遅すぎた。今日、フランスにある34個の原子炉は管理基準を満たしてなくて、信頼できるものではない。つまり安全機能が十分に働かないということだ」と述べている。

そこで叫ばれていたのが「福島はパリだ」というものである。これはパリ市民が福島市民の原発事故下の心境に連帯しようとするものだが、同時に日本と共にフ ランスは原子力開発では世界の指導的な位置にあリ両国が原発を容認する社会と政治であることを表現していて、共に危険な放射能の危機に悩まされているとい うことである。

同時にまたそれは、日本が世界で唯一経験した広島と長崎に投下された原爆の放射能につながっている。福島地震の津波と原 発基地の事件は「福島・パリ=広島・長崎」という世界的な広がりの意味をもっているわけだが、ひとまずは原発基地の脅威を共有する我々の運命といういうこ とで、まさに「福島はパリ」そのものなのである。

それにしてもどうして日本は原爆被爆国としてその放射能の危機と恐怖を忘れて原発基地 を許してきたのだろうか。電気をつくるはずの原発基地が電気が停電して冷却できず、危険な放射能は外に漏れだし汚染が酷くなってしまった。いま福島の原子 炉は爆発寸前の6度のレベルにまでそのときなっていた。

日本は、「広島・長崎」で落とされた原水爆弾の放射能の恐怖と原発基地で起こる放射能漏れとは別なものだという漠然とした認識があったのではないだろうか。福島の原発基地の稼動そのものが、「広島・長崎」で爆発した原爆と相似するものだとは考えられなかったのだ。

原発基地は原子爆弾とは違うのだという誤った認識に支配されていたとしかいいようがないのだ。安全対策の不完全な原子力施設はすでに爆発した原爆と同じだということがわからなかったのだ。

だから「福島」は、今後は世界中の国々にある原子力発電基地は、すべてリスクを回避できない不完全なものとして、「爆発しつつある原爆」を抱えた社会であることを教えることになった。

原子力発電は頭上に釣り下がった放射能のデモクラスの剣などではなくて、すでに降下された剣なのである。

日本には多くの原爆反対を訴える団体がある。わたしの以前関係してきた宗教団体の原爆に対する取り組みの認識だけにしぼって概観してみると、明らかに、原 爆の放射能の危機の側面がしだいしだいに消えてしまって、核軍縮や核戦争反対の平和運動論になってしまっている。核兵器に対する反対が政治的な平和運動と なることで、核の平和利用という側面が暗黙のうちに容認されたわけだ。最近では国連などの国際的舞台で核戦争廃絶を訴えることが平和運動だと認識させられ てきて、ますます原爆兵器の放射能の危険の側面が忘れられてきていた。

創価学会の第二代会長戸田城聖氏は昭和32年9月に横浜の三ツ沢 競技場で「原水爆禁止宣言」と呼ばれる宣言を遺訓の第一だとして当時の青年部に残している。その中で、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に 起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを 使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」(戸田城聖先生 講演集 創価学会 昭和36年10月12日発行  347頁)といっている。これが以後の創価学会の平和運動の基本になっている。ここでは原爆の危機は「核」であって、必ずしも核「戦争」を指してはいな かったのではないか。

「平和運動の原点、広島と長崎の旗手たち」という一文が収められた「民衆パワーの奔流 ドキュメント 創価学会 青年部 松本泰高著 新英出版 昭和58年5月31日 頁90」には、創価学会の平和運動が反戦出版で被爆者体験を扱っていることが書かれている。広島で 「被爆体験を聞く会」で活躍していた女性幹部の話しとして、「私自身、母が思い出したくないこともあって、被爆二世ということをほとんど忘れていた。で も、それではいけないという風に私の意識が変わってきた」とある。

以後この強烈な、原爆の放射能の第二世代という危機意識が次第にうす れてゆく転換点を示す文章を91ページに見ることになる。「平和運動は、単なる被害者意識だけから出発したのでは運動の広がりに限界がある気がするから だ」 これを読むと放射能の被爆危機の一面が平和運動の広がりの中で窒息したことがわかる。

創価学会では会長の発言は大事なので、次に 池田大作氏の考えを引用しておくと、「とりわけ各時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争の否定であります。たとえ核兵器を使用しない戦争であって も、それがいつ核戦争にエスカレートするかわらない以上、不戦こそ人類生き残りの不可欠の条件だといわねばなりません」(昭和59年1月26日「聖教新 聞」掲載の「世界不戦」への広大なる流れを 、と題した講演(広布と人生を語る 第5巻 所収 昭和59年6月6日 223頁 聖教新聞社)と語っている。

つまりここでは、池田氏は「不戦」が実現すれば「核」の脅威は無くなると勘違いしてしまったようで福島の不幸は予想外となった。



ここでは核の平和利用での原発の危機が消え去ってしまっているだけでなく、原発での放射能の危機は眼中になかったようだ。



戦争とは無関係に、地震などの災害で原発事故が起こり、原子爆弾と同じ放射能の危険な結果をもたらすことが認識されてないわけだ。



公明党の原発に対する認識も池田氏と同じかそれに順ずるものであろう。


最後に、近年の池田氏の講演で同氏の師である戸田氏の「原水爆禁止宣言」にふれて書かれた文の解説があるのでこれを引用しておく。「核兵器廃絶へ民衆の連帯に」学ぶ(「第三文明」2009年(平成21年)11月号 88頁)という文だ。筆者の名前はない。



こ こでは戸田氏の問題意識であった原爆の核への危機感は大きく変化していることがわかる。核軍縮と核拡散防止論に終始しているからだ。2011年3月の福島 原発事故が核の平和利用で起こったわけだが、池田氏のこの講演に関する解説によると、原発基地の平和利用での放射能の危険性の認識は無くて、安全視してい るのかどこかに消滅したようで一言も論じられてない。



(2011/08/09 10:57)




原爆は福島原発事故で、「広島・長崎=福島・パリに」



[4] 飛田正夫




一晩考えて見ました。

ご指摘の通り公明党が自民党とともに原発を推進してきたことが福島の伏線になっていると考えます。自民党も他党も反原発に深い思想的な根拠はあるとは思えません。原爆禁止というのは本当はこれは創価学会・公明党の生命線で仏教的にも死守しなければならなかったものです。

この福島の帰結と創価学会の思想を切り離して考えることは私には大変に困難なことだと思うようになっています。

広島と長崎の放射脳は米国の原爆投下でおきましたが、もう一つの放射脳の爆発は福島原発で、これは反対すべきはずの創価学会の思想の転向に淵源があると見ます。すくなくとも思想にはそういう責任があるのだと考えます。

知悉な原稿ですが一応これはこのままにしておいて、別に新たな記事を書くことにしたいと思います。

よろしくお願いいたします。


飛田正夫








(2011/08/11 14:02)


[3]   

飛田正夫様

創価学会の核認識は、公明党が自民党とともに原発を推進してきたことと関連して興味深い指摘ですが、それより「広島・長崎は福島でそれはパリ」の運命なのだという認識に注目したいと思います。そこに焦点を絞った原稿にまとめていただけないでしょうか。
緑の党議員の3月の発言だけでなく、8・6のヒロシマ、8・9のナガサキもめぐるさまざまな動きなどはなかったのでしょうか。パリならではの情報を期待しています。

(2011/08/10 10:30)


[2] 飛田正夫

原爆は福島原発事故で、「広島・長崎=福島・パリに」


広島と長崎に原爆が落ちなかったのならば日本の戦争は終結しなかったかど うかの論議はここではしない。しかし、2011年3月11日にはじまる福島原発事故の不幸は、この日本に落ちた原爆の忘却されてきた意味を再認識させるこ とと深く関係していた。それは両者がともに放射能の被爆の問題だったということである。一方は原子力の軍事利用であり他方は原子力の平和利用と呼ばれる同 じ危険を内包するシステムであった。核兵器廃絶はその軍事的側面を問題にして平和運動と結びついた。また、放射能被爆や被爆二世を問う流れは原発の平和利 用という煙幕の仕掛けの陰にその危険性が長らく隠されてしまった。福島の原発事故を境にして平和利用の正体がやっと理解されはじめてきたのだと思え る。(パリ=飛田正夫)


原爆の放射能被爆の筋というのは日本の平和論や核反対運動では次第に消滅してしまっていったのではないかということで、つまり広島や長崎の原爆が核廃絶や核拡散防止という核の軍事的利用への反対運動になることで、核のもう一方の危険を見落としてしまったように思える。

3月13日、ヨーロッパ・エコロジー・緑の党のエバジョリ欧州議員らは世界人権宣言が発せられた、エッフェル塔の対岸の丘に立つシャイヨー宮殿前で、「福 島はパリだ」「原発はいらない」と書いたバンドロールを掲げて連帯の抗議集会を開いた。これがフランス国営放送A2で紹介された。このときに初めて「広 島・長崎は福島でそれはパリ」の運命なのだと認識させられた。

これで「原子力が安全でないことが証明された」。「福島はパリなので」あって危険な原子力発電をやめるべきだと訴えたエバ・ジョリ欧州議員はさらに、「専門家がいう、原子力は統御できるという意見は、今日、誰も信じられなくなった」と発言している。

またパリのEELV副書記長のボーパン議員は「もう遅すぎた。今日、フランスにある34個の原子炉は管理基準を満たしてなくて、信頼できるものではない。つまり安全機能が十分に働かないということだ」と述べている。

そこで叫ばれていたのが「福島はパリだ」というものである。これはパリ市民が福島市民の原発事故下の心境に連帯しようとするものだが、同時に日本と共にフ ランスは原子力開発では世界の指導的な位置にあリ両国が原発を容認する社会と政治であることを表現していて、共に危険な放射能の危機に悩まされているとい うことである。

同時にまたそれは、日本が世界で唯一経験した広島と長崎に投下された原爆の放射能につながっている。福島地震の津波と原 発基地の事件は「福島・パリ=広島・長崎」という世界的な広がりの意味をもっているわけだが、ひとまずは原発基地の脅威を共有する我々の運命といういうこ とで、まさに「福島はパリ」そのものなのである。

それにしてもどうして日本は原爆被爆国としてその放射能の危機と恐怖を忘れて原発基地 を許してきたのだろうか。電気をつくるはずの原発基地が電気が停電して冷却できず、危険な放射能は外に漏れだし汚染が酷くなってしまった。いま福島の原子 炉は爆発寸前の6度のレベルにまでそのときなっていた。

日本は、「広島・長崎」で落とされた原水爆弾の放射能の恐怖と原発基地で起こる放射能漏れとは別なものだという漠然とした認識があったのではないだろうか。福島の原発基地の稼動そのものが、「広島・長崎」で爆発した原爆と相似するものだとは考えられなかったのだ。

原発基地は原子爆弾とは違うのだという誤った認識に支配されていたとしかいいようがないのだ。安全対策の不完全な原子力施設はすでに爆発した原爆と同じだということがわからなかったのだ。

だから「福島」は、今後は世界中の国々にある原子力発電基地は、すべてリスクを回避できない不完全なものとして、「爆発しつつある原爆」を抱えた社会であることを教えることになった。

原子力発電は頭上に釣り下がった放射能のデモクラスの剣などではなくて、すでに降下された剣なのである。

日本には多くの原爆反対を訴える団体がある。わたしの以前関係してきた宗教団体の原爆に対する取り組みの認識だけにしぼって概観してみると、明らかに、原 爆の放射能の危機の側面がしだいしだいに消えてしまって、核軍縮や核戦争反対の平和運動論になってしまっている。核兵器に対する反対が政治的な平和運動と なることで、核の平和利用という側面が暗黙のうちに容認されたわけだ。最近では国連などの国際的舞台で核戦争廃絶を訴えることが平和運動だと認識させられ てきて、ますます原爆兵器の放射能の危険の側面が忘れられてきていた。

創価学会の第二代会長戸田城聖氏は昭和32年9月に横浜の三ツ沢 競技場で「原水爆禁止宣言」と呼ばれる宣言を遺訓の第一だとして当時の青年部に残している。その中で、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に 起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを 使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」(戸田城聖先生 講演集 創価学会 昭和36年10月12日発行  347頁)といっている。これが以後の創価学会の平和運動の基本になっている。ここでは原爆の危機は「核」であって、必ずしも核「戦争」を指してはいな かったのではないか。

「平和運動の原点、広島と長崎の旗手たち」という一文が収められた「民衆パワーの奔流 ドキュメント 創価学会 青年部 松本泰高著 新英出版 昭和58年5月31日 頁90」には、創価学会の平和運動が反戦出版で被爆者体験を扱っていることが書かれている。広島で 「被爆体験を聞く会」で活躍していた女性幹部の話しとして、「私自身、母が思い出したくないこともあって、被爆二世ということをほとんど忘れていた。で も、それではいけないという風に私の意識が変わってきた」とある。

以後この強烈な、原爆の放射能の第二世代という危機意識が次第にうす れてゆく転換点を示す文章を91ページに見ることになる。「平和運動は、単なる被害者意識だけから出発したのでは運動の広がりに限界がある気がするから だ」 これを読むと放射能の被爆危機の一面が平和運動の広がりの中で窒息したことがわかる。

創価学会では会長の発言は大事なので、次に 池田大作氏の考えを引用しておくと、「とりわけ各時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争の否定であります。たとえ核兵器を使用しない戦争であって も、それがいつ核戦争にエスカレートするかわらない以上、不戦こそ人類生き残りの不可欠の条件だといわねばなりません」(昭和59年1月26日「聖教新 聞」掲載の「世界不戦」への広大なる流れを 、と題した講演(広布と人生を語る 第5巻 所収 昭和59年6月6日 223頁 聖教新聞社)と語っている。

つまりここでは、池田氏は「不戦」が実現すれば「核」の脅威は無くなると勘違いしてしまったようで福島の不幸は予想外となった。

ここでは核の平和利用での原発の危機が消え去ってしまっているだけでなく、原発での放射能の危機は眼中になかったようだ。

戦争とは無関係に、地震などの災害で原発事故が起こり、原子爆弾と同じ放射能の危険な結果をもたらすことが認識されてないわけだ。

公明党の原発に対する認識も池田氏と同じかそれに順ずるものであろう。

最後に、近年の池田氏の講演で同氏の師である戸田氏の「原水爆禁止宣言」にふれて書かれた文の解説があるのでこれを引用しておく。「核兵器廃絶へ民衆の連帯に」学ぶ(「第三文明」2009年(平成21年)11月号 88頁)という文だ。筆者の名前はない。

ここでは戸田氏の問題意識であった原爆の核への危機感は大きく変化していることがわかる。ここでは、「核」の脅威ではなくて核軍縮と核拡散防止の「兵器」 の政治論に終始しているからだ。2011年3月の福島原発事故は核の平和利用で起こったわけだが、すでにこの時に原発の持つ「核」の危険性が池田氏の意識 の視野からは抜けてしまっていたわけだ。

池田氏の講演をレジュメした解説を見ると、原発基地の平和利用での放射能の危険性の説明は皆無で一言も論じられてない。すでに戸田城聖氏の原水爆禁止宣言の遺言は継承されてなく改変されてしまったことがわかる。




(2011/08/09 17:57)