2011年11月11日金曜日

パリ最古のパッサージュの一つ、初のガス灯の点いたモンマルト大通り「パノラマ」

パリで最古のパッサージュの一つに「パノラマのパッサージュ」(Le passage des Panoramas)がある。。ここは1817年12月、パリで最初にガス灯が燈されたところでもある。パリ2区の証券取引所と10区のグレヴァン美術館との間にあり、1800年にルクセンブルグ公爵シャルル・フランソワ・ド・モンモランシー男爵によっての住居の庭の跡地を分割したその一部をジェムス・タイヤーが買ってグリザー(V.Grisart)にパッサージュを作らせたものだ。パッサージュとパノラマの関係については、パッサージュを路地と訳していることには少し違和感があるにしても、なんといっても、今でも目の覚めるようなその鋭い分析はヴォルター・ベンヤミンが描いた、「パり-十九世紀の首都 1939」(ヴォルター・ベンヤミン著作集6 ボードレール 晶文社1975)である。



写真撮影は筆者)
「パノラマのパッサージュ」を私が訪れた時に偶然にシンガポールのカップルが結婚式で来ていて、どこかこのパッサージュにふさわしい雰囲気があった。私の頭をすぐによぎったのは、オルセー美術館にあるルノワールの作品、「田舎のダンス」と「町のダンス」という連作だ。ヴォルター・ベンヤミンがその著作の中で指摘した主題の一つでもある。
「パノラマのパッサージュ」(Le passage des Panoramas)。店には文字の古い組版木が売られていたが、なんだかわけのわからない物も一緒に並べられている。(写真撮影は筆者)
ここで売られている版木の印字や古い時代の絵葉書(写真)などの「複製芸術時代」の技術の産物が芸術を脅かして、田園や田舎の風景が産業社会の都市の中に機械的な形態化の位置づけと取り込みが試みられた、そういうパノラマ芸術の時代の産物であったことを偲ばせる。


「パノラマのパッサージュ」(Le passage des Panoramas)。サン・マルク通り側から(写真撮影は筆者)


「パノラマのパッサージュ」(Le passage des Panoramas)。モンマル
トル大通り側から(写真撮影は筆者)



「パノラマのパッサージュ」(Le passage des Panoramas)。古い切手コレクションの店。(写真撮影は筆者)

ルクサンブルグ公爵邸の入り口のアーチ門は、サン・マルク通り側に1782年にモンモランシー・ラヴァル男爵によって開通された29メートルしかないパノラマ通り(Rue des Panoramas)からは、ファイドー・ギャラリー(Galerie Feydeau)への入り口となって見えている。

その反対側のモンマルトル大通りの「パノラマのパッサージュ」(Le passage des Panoramas)入り口近くには大きなロトンドが二つあって絵が描かれてパノラマになっていた。

ガスの照明は1801年10月12日にフィリップ・ルブロンによってサンドミニック通り47番地のセグネレー館で石炭から抽出したガスで行われ、その後の1811の実験の後に、1817年、パリで最も早くパノラマ・パッサージュの店でガス灯がつけられた。

「パノラマ」は美しいレストランと多彩な商店で大変に有名になって1820年代にはパレロワイヤル地区と共に最もパリの人が訪れるところになっていたといわれる。パノラマのパッサージュ47番地には1840年にできた装飾彫刻のステルン(Stern)の店がある。手袋の店。お菓子や。ジャムの店。古物商と紙の店スイスがある。


18世紀末から19世紀にかけて流行したパッサージュ(passage)は鉄骨とガラスの天井で覆われた屋根に庇護されていて悪天候でも深夜でも当時の荷馬車の喧騒に邪魔されることもなく安全に歩けることからパリの人々の人気を集めた。パッサージュには様々な種類の商店が並んでいた。現在は流行から廃れ過去の遺物のような感じがするがそれでも古いパリを偲ぶ旅行者やパリ人が好んでこのタイムトンネルのようなパッサージュを利用している。

パッサージュは名前の通りで大きな二つの通りを繋ぐ道であり、わざわざここを通らなくても目的地にはいけるのだが、通り抜ける近道という通路の意味もあるようだ。しかし通りすがりに逍遥的に買い物やコヒーを飲んだりできるだけではなく、産業社会の富と消費を象徴するギャラリーやデパートの性格をすでに備えていた。リヨンのトラブールなどと機能が異なるところだ。