「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎×大澤真幸著 講談社現代新書 2100)は2011年に出版されたもので良く読まれたものだという。「なぜ救わないか」(予定説)を説明しても、「なぜ救えないか」(救済の無力さ)を語らないのか?昨晩は近所に住むイスラム教徒の方がアマダン(断食)が終わったので祝宴をするのだといって私のところにも家庭でつくったというイスラムの菓子を一皿持ってきてくれた。私はキリスト教やイスラム教を信じていないのでこれを食べるのには抵抗があった。私は、キリスト教に力がないから地獄に落としたり天国で救ったりするのだと考えている。キリスト教の神が人を救わないのではなく、キリストが全人類を救えないのである。「何故、救えないのか」を本書は探求すべきであった。
学校の教師と同じである。生徒はできない教師に当たれば理解も浅くできも悪くなるだろう。力のない教師はできない子供だとして責任を生徒側に着せて落とすだろう。しかし教師の仕事というのはできない子供をできるようにすることだ。教師に力があれば全員を合格卒業させることができるだろう。生徒の質の如何によらないのである。それを生徒ができないので「恩寵」が通じないとキリスト教では考えるとしたらそれは「慈悲」のない世界観になる。
慈悲ということでいえば「ふしぎなキリスト教」には、198頁辺りにキリスト教徒は他人を決めつけない、裁かないというくだりがあるが、悪事を働いている者を見ておいて注意もせずに黙視しているのはフランスではしばしば見られる光景である。が、これは本人(悪を働く者)に対しても不誠実な態度であるばかりでなくそれを傍観している者にとっても悪も許すことになっているわけで、これは他を裁くなという「隣人愛」でもなく、むしろ自他の悪を許す恐ろしい教えであるということだ。
自分自身の正義を貫くためにも他人の悪を戒めるべきではないか。それを神だけの裁定に一任しているのは自分が存在し生きている責任を回避し、不実さを誤魔化していることになる。
救済に力がないからキリスト教では「救える人」「救われない人」をあれこれ選ぶ必要があるのである。本当にキリスト教に救済力があれば誰でも救えるはずだ。救われない人がいるのは神の恩寵が人ごとに異なるからだとして偽っている。本当は神の側に総ての人類を救えない力不足があることを誤魔化し隠しているのだと思える。
「ふしぎなキリスト教」では、「つまりね、人間には神に愛される人と愛されない人がいる。いていいの。それは受け入れなければならない」と書いている。しかしこれは当然のことキリスト教徒への教えに限っていえることなのである。この神側の選択によって救われる者と救われない者とが出て来ると説明しているわけだ。
「ふしぎなキリスト教」の298頁でも同様な繰り返しが書かれていて、神が人間の救済を一方的に決める一神教を説明している。
「ふしぎなキリスト教」には、『「俺は神を見た」と言ってしまえば、それはほんものの神ではなくて、偶像になってしまいます』(84頁)として、神の視覚性の有無の問題だとして論じている。いずれにせよそれは偶像を前提にした論議であって、背後に神なるものの物象化(イコンや十字架のキリスト、ピエタ)が予定されているわけだ。
そうではなくて「法」として説くことを考えなかったキリスト教は、偶像崇拝を否定しているといってもやはり聖なるものの物的な有無に執着した宗教として考えられるのである。
そのためにキリスト教は不可視の世界を考慮しこれを承認しないと成立しない。神もそうだが、ジャンヌダルクでもサント・オベールでも夢の世界で天使ミカエルを見たのであって、実際には神や天使などを見た者は誰もいないのである。ところがこの夢でみた幻想を視覚化してイコン画とか天使象にこしらえて塔の上に乗せたり壁に描いたりしているわけだ。
私(筆者)の知っている僧などは、「ここのモンサンミッシェル修道院の15世紀の丸彫りのミカエル象は、私は嫌いだ」といって批判的に話すのであった。キリスト教の神や天子の姿は夢中の幻想であり、これをあれこれと描き刻んだもので、夢を基にしてあるいは想像で勝手に創作家が天使象を作り上げた宗教なのである。
本来、どんな宗教・道徳も人を殺さないということを先ず原点としているわけだ。が、キリスト教における十字軍遠征というのはイスラム教徒を殺害することを認めてしまった。キリスト教徒がイスラム教徒を殺害するのは聖戦であるとして正当化し、これを許している。キリスト教徒は善でイスラム教徒を悪と考えたのである。これは宗教戦争であり現在まで続く人種差別の淵源ともなっている。
宗教的救済が人種差別に関わっているのはキリスト教の特徴である。それは救いは神の手によるもので、誰でもを救えるとはしなかったキリスト教の神の側の欠陥であるからだ。この力不足の欠陥が偏頗な思想となって不平等が許されている。それが人種差別を許してしまう宗教となっているわけだ。
キリスト教は、イスラム教徒が改宗しなければ、キリスト教で救えるとは言わないだろうし言えないだろう。彼らを自分たちと同じような人間とは見てないためである。「ふしぎなキリスト教」ではキリスト教の救済を論じたところで、「神がつくった世界の中になぜ悪があるのか」(58頁)と問いかけている。「なんで全員を救わないのだろうと」(183頁)とも糾している。この問いは新鮮ではないが、本当に重要で面白い問いなのであると思う。
184頁では「救いの規準を出せと神に言いたい」とまで言っている。そして一神教の性格で救うのは神の側であって「人間は自分を救えないんですよ」として、神の「恩恵」を説明している。とはいっても、これは「ふしぎなキリスト教」でのキリスト教の救済の説明であり教義であって事実の上では当然この教えの通りではなくて、自分が自分自身を救えないだけでなくて神が人間を救えないということを忘れてはならない。
そのために228-230頁あたりで橋爪氏が、「つまりね。人間には神に愛される人と愛されない人がいる。いていいの、それは受け入れなければならない。(…)健康の人と病気の人とか、天才とそうじゃない人とか、人間はみな違いがあるでしょ。このすべての違いを、神は、つくって、許可しているわけだから。(…)一神教では、神に愛されている人と愛されてない人というふうにしか解釈できないんです」「そう、その状況で神のことが信じられないようなら、一神教なんて成り立たないんだ」と言っているわけで、これは良く考えてみるとキリスト教信者の立場での信仰の態度であってキリスト教徒の信仰を持つ者のことでしかない。信仰のない者のことを論じているのではない。
次も同じ事だが、「まあここは、イエスの話しに耳を傾けるのが最大のもてなしだ、という単純な意味に解すればいいと思います」とある。引用箇所に筆者が下線を引いた部分は、神の作った人間の違い、つまり差別があってもこれを受け入れよといっているわけで、受け入れないと神が作った差別を否定することになるということである。橋爪氏はこの立場から解釈しているわけだ。
そしてこの態度がプロテスタントが「勤勉に働くことは、神の命じた、隣人愛の実践である。この状況で、勤勉なことは、神の恩寵のあらわれです。となると、自分が神の恩寵を受け入れていると確信したければ、毎日勤勉に働くしかない」(302頁)として「ウェーバーの言うとおり、救済予定説を信じたピューリタン(カルヴァン派のうち、イギリスにいた人びと)は、勤勉になった」(300頁)と、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の説明を展開している。
キリスト教は人をあの世で救うといってもこの世では誰も救ってないのだし、現世に救える証拠も保証もないのがキリスト教である。そういう中で「恩寵」の確証が勤勉性を演出することで代行されていった。利ざやを漁る「あくどい商人」(317頁)が出てきて、不実な見せ掛けだけの勤勉さを演じ、精神のない職業人がヨーロッパ中に排出することになったということだ。これは救われている人のことではないのである。
キリストが神であるという論理を三位一体説を使って381年のコンスタンティノーブル公会議で決めたという箇所がこの本の一つの山であるといえる。これはキリストを神にする為の、「苦肉の策のような結論が、三位一体説ではないか」(253頁)と大澤氏はいっている。
私(筆者)は最近カトリックの僧とこの「三位一体」について話す機会があった。その時に、ホモの結婚が仏議会で可決されることに反対するカトリック教会を中心とした3ヶ月前に始まったフランスでの抗議デモに関して僧に意見を聞いた。
「このフランスの騒ぎはキリストそれ自身の業(ごう)そのものの再来であって、キリスト自身の背負った同じ問題を現在にキリスト教徒はひきづっているのではないか?」つまり「カトリック教会ではキリストのことを拾い子や養子ではなく、試験管ベービーでもないと主張しているわだが、その立場こそが、現代のフランスでのホモ家庭での養子縁組承認やレスビアンの出産医療援助(PMA)法案(試験管ベービー)の問題になっているのではないか?」と訪ねた。
なぜならば、ホモの結婚反対デモではキリスト教徒たちは、「子供には1人の母親と1人の父親を持つ権利がある」と主張していたからである。彼らが掲げた横断幕には両親の間に手を取られた子供の姿が描かれていた。しかし世の中には様々な理由から、子を失った親や親の無い子は実に多いのである。つまりキリストは1人の母と1人の父から生まれた子供であることを受け入れないというのがキリスト教徒の認識だからである。
それがそのまま現代のフランスのホモ家庭の子供の問題なのである。カトリック教徒にとって、ホモの子供を認めることというのはキリストと同じようにして生まれる子供が、つまりキリストと同じ人間があちこちに溢れ出ることを意味することである。これを承認することは困るのであろう。
「神がマリアの胎内に宿ったとすると、これはマリアと夫ヨゼフとの家庭生活を認めないキリスト教徒では、神の子キリストは、養子か、もしくは神の試験管ベービーと考えられるだろう」と話すと、この僧はそそうかもしれないと即座に答えた。が、後日この言を否定してきた。
なぜか、それはホモの結婚承認によって、キリストの出自それ自体がもつ問題、つまり「養子か、もしくは神の試験管ベービー」としての子供(キリスト)が我々の社会の中に幾人も出現してくるからである。
「ふしぎなキリスト教」では、「橋爪 なんで全員を救わないのだろうと、思いません」「大澤 そう思いますよ」(183頁)と、素晴らしい疑問を提示している。それにも関わらず、これ(一部救われる。他方で救われない人がいて、)を土台にして説き起こし、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の論理的な説明をするための解説で終わってしまった観がある。
なぜキリスト教が総ての人を救えなかったのかを信仰者の側からではなく、キリスト教の教義の観点からもっと論じてほしかった。つまり「なぜ救わないのか」ではなくて、「なぜ救えないのか」を問うべきであった。