2013年11月11日月曜日

クメール・ルージュ人権犯罪裁判初判決、「拷問収容所」元所長に禁固35年、80歳前に出所も

カンボジアのクメール・ルージ体制下時代のプノンペンのTuol Sleng(S 21)と呼ばれる拷問収容所元所長カン・ゲック・イアウ(通称ドゥイッ、67歳)は、人権犯罪者として35年の禁固刑が26日に宣告された。しかし、同氏は既に11年の刑期を努め上げているために、残る刑期は19年となった。カンボジアの法律では刑期の3分の2を問題なく終了すれば自由になれるというのがあって、その法律の適応をうけるとすると、ドゥイッは80歳前に刑務所を出ることになる。
ドゥイッの刑期が検事の要求する40年よりも軽い宣告となったために、犠牲者を家族に持つカンボジアの市民側は満足していない。最低40年の刑罰か終身刑を要求していた。

ドゥイッは拷問、強姦、殺人という非人間的犯罪行為を1975年から1979年にかけて国の人口の4分の1に当る170万人を殺害したクメール・ルージュの責任者であった。

ドゥイッは数学の教師でS21は以前は高校であった。彼は体制のイデオロギー的命令に従っただけで、拷問を止めることは出来なかったことを検事は認めている。

1975年にカンボジア共和国を転覆させたクメール・ルージュは農耕的ユートピア社会の建設を志向して国を封鎖し、街から人々を追い出した。強制労働と知識人の国外追放を行った。

1979年に体制が崩壊して資料隠滅に間に合わなかったために現在は記念館となって当時の拷問の道具などが残こされて展示されている。囚人にされると牢番はあらゆる手段で白状させて文字に書かせている。水責め、電気責め、棒で殴打したりして白状すると街の外の「殺害の広場」で首元を撃って殺した。

ドゥイッは12372人以上を殺害した責任者の一人で、1999年から2007年の間のカンボジア軍法廷で30年の刑罰が下っていた。すでにドゥイッは11年の刑期を終えていた。ドーチュは1999年にジャーナリストによって仮面を暴かれて以来キリスト教徒に改宗していてカンボジアの北部の村で暮らしNGO組織関係で教えていた。