2014年9月1日月曜日

路地裏で焼き鳥を食べて酒を楽しむ、世界にない都市論 「雑踏の社会学-東京ひとり歩き」(川本三郎 著 ちくま文庫)を読む



「雑踏の社会学-東京ひとり歩き」(川本三郎 著 ちくま文庫)を読む。この本を読むとコマーシャルが非常に多いのである。人間が社会的存在で人が互いに依存して生きているとして、そこに住む都市の路地やガード下にいくら多くの焼き鳥やと飲食店があるとしても、またそれが東京の風情だといっても、サントリー・ホワイトが必ずしも毎回のように出てくる必要はないだろう。そういう本なので都市の東西比較論などは詳しくは語ってないが、それでも、宗教と都市の人々の日常的な邂逅の欠如が東京の街を魅力ある活気溢れる変化の町にしているのではないかとも思わせるすばらしい文章があった。日常的に天国地獄の鐘が鳴らされている教会の存在がある限り、いくら現代が非宗教化しているとはいっても、西欧の都市では、焼き鳥と酒を毎日楽しめる空間はできないのだろうと考えたのである。焼き鳥と酒をガード下や路地裏で昼間から楽しめる東京のような都市は世界に成立しないだろうと考えた。

この本を読むと東京の人はみんなが焼き鳥をほうばって酒をのんでいるのだろうかと不思議な気持ちになる。この本を読むと日本人は酒場や飲食店や焼き鳥のような家でも職場でもない空間なしでは生きていけないのだろうかと思いたくなるほど生活の一部になっている川本氏の書き方である。最近のフランスの社会学者でこういった空間を問題にしている人もいるので先駆的なのかもしれない。

川本氏の本は東京の珍しい見方を紹介している箇所も多い。その中で東京に散在する墓の歴史や、赤羽あたりから多摩川河口に続いている「崖線」(104頁)という地形があることは面白い発見であった。しかし本書の一番の目玉は地下鉄の乗り入れ駅ができることで消える町や繁栄しだす町があるという論であろう。最近日本から来られた母校の先生はこの本で地下鉄路線の開通で栄えた三百人劇場はなくなり、池袋の文芸座もなくなったと話した。これだと川本論のさらなる理論化の発展が望まれるところだ。

この本の出色のひとつであるこの川本論は、新幹線の駅に選ばれなかった町の運命と似ているし、昔の巡礼街道筋に入らなかった町と入った町とのそれとも共通しているわけで、決して新しい視覚ではない。本書が面白いのは町の中心街というよりも場末や町の裏路地に不思議な幻想的な空間がありそこに日本人が生活の安堵を見出し集まるという指摘である。たとえそれが嘘であり演技であってもその空間に好んで人が集まって来るという見方が、あちこちのページに散見されることだ。これは立派な「社会学的」な視覚である。

そのどうして人が集まるのか?という理由を川本氏は日本人の孤独とかに求めている。ディスコは人に会うためではないし、焼き鳥屋もカウンターで一人孤独に飲むのであって、渋谷に集まる若者は共同幻想の「町に見られる」という演劇空間の主人公になれるからだと解き明かす。

町の東西比較論が少し論じられている箇所があったので紹介すると、川本氏は庶民の幸せ=孤独をよしとする男達の安堵の地が場末の裏路地やガードの焼き鳥屋と一杯飲み屋は激変する東京の常に変わらない場所でこれは横に縦に広がった空間で神社などはその奥くの外れにある。しかし西欧の都市は教会が町の中心にあるとするものだ。(39-40頁)と書いている。

川本氏はこれ以上はなにも言ってはいないのだが、この宗教性との日常的な邂逅の欠如が東京の街を沸き立たせているのではないか。日常的に天国地獄の鐘がなっている教会の存在はいくら現代が非宗教化しているとはいっても、そういう西欧の都市では人間は生活を安心して楽しめないのではないかと思う。焼き鳥と酒を毎日楽しめる空間はできないのだろうと思えたのである。