道順は特に決めてはいなかった。足の向くままという感じである。
オペラ座を背にしてオペラ通りを少し下り直ぐに左に折れるRue du Quatre SeptembreをしばらくBourseの方に向かい、その一つ手前にあるRichelieu通りを右に曲がった。
左手にクーポールの半円球の天蓋を持つ旧国立図書館があって、これが大掛かりな改修工事をしている最中であった。ここは特別な許可をもらわないと閲覧できなかったが、今はミッテラン大統領が造った大きな図書館がオーステルリッツ駅の東側にある。
Rue des Petit Champ側に出ると、旧国立図書館の横隣りにはHôtel Colbertがあった。ここは文化講演会などもやっているが、入り口にはミケランジェロの有名な彫刻作品「奴隷」のポスターが貼られてあった。
わたしはこれのポスターを認めるとモンマランシーの城やシャンティーの城を転々として、一時期リシュリュー枢機卿の手にあった「奴隷」のことを思い出した。どういうわけか会期はとっくに過ぎているのに、このコルベーユの館にこのポスターが掲げてあるのか等々、わからないままにそこを立ち去った。
この散策は午後からであったので、冬のパリは直ぐに暗くなり気温も下がってきた感じである。Rue des Petit Champの奥にルイ14世の騎馬像が小さく見える。Place des Victoiresだ。ここまで短い距離をRue La Fuillardを進んだ。その7番地は私がその昔しパリに到着して1週間ほどいたところだった。
Rue Croix des Petits Champsをルーブルの見える方に進みすぐに左り側に曲がり、鄙びた家屋の並ぶRue QuoquillierをRue du Luvreまで進む。この道をしばらく行ってから、私は少し戻り返した。それは、石の臼で挽いた小麦の粉を使用したパンがあると店先に書いてあって、そのことが頭に残ったからである。早速、店中にはいった。
ここで大きなパンの500グラムほどを切ってもらった。値段は5ユーロだがすごく美味しい。パンにはレーズンや、ピスタシオ、マグダミアナッツなどが混ぜ込んでいて少しだけ甘かった。これを食べながら円形状の建物Brouse de Commerceの前を通る。
ここからその建物の後ろに16世紀ルネッサンス建築のサントウスタッシュ教会とノストラダムスの天文柱がきれいに見えるので写真をとる。
警察がバス停近くに機関銃を手に立っていた。なぜこんなところにいるのかと聞くと、今は非常時で戒厳令が出ているのだといった。ここの建物には何の表札もないが反人種差別と反ユダヤ主義協会の本部があるので警備が必要なのだといって、後ろがそうだと指差した。そこの前に婦人が絵を描きなら座っていた。明らかに不特定住居者だとわかるが、物乞いをしている雰囲気はなかった。
そのあとで、オペラ座周辺で見たような、貧しい身なりの様々な人々が再びRue de Rivoliに姿を現してきた。その数があまりにも多い。これはどういうことなのか?子供ずれの婦人などもいた。
今私が足を運ぼうとしているパリ市役所の正面玄関やその周囲には、彼らSDF(不特定住居者)をテーマにした写真が掲示されている。ひょっとして彼らが、そのことを知っていて、それでパリ市庁舎まで続くこのRue de Rivoliに座り込んでいるのだろうか?と考えた。
パリ市庁舎を見た後で、その北側を通るリヴォリー通りを横切ってRue des Archivesを北にしばらく進んだ。三つ目の交差する道Rue des blancs Manteauxを左に折れる。この道はもう一つ北側にあるマレ地区の繁華街Rue des Francs Bourgeoisと平行して走っている。
ここに正面が道路側の南西部に接して建てられている17世紀バロックのNotre Dames des blancs Manteaux教会と小さな公園が左側に見える。
Rue Vieille du Templeの通りに出て、右に曲がり3つ目がRue des Rosiersだった。
この異様な雰囲気のユダヤ人の商店街を進んでいくと、2つ目の道Rue F.Duvalの角の洋品店に表札が見つかった。ここが火炎瓶を投げ込まれてテロでユダヤ人が殺害された昔のカフェ・レストランであった。この近くにユダヤ教会が3つもある。Rue des Rosiersの繁華街を過ぎるとその奥は急に人気の無い寂しさを感じる場所で、ひどく殺風景なのには驚く。その意味はよくわからない。次の機会に探ってみることにしよう。