「貧女が大河を渡る」話し 母親の「慈愛」はキリスト教の天秤では量れない
この「貧女が大河を渡る」話しは、「涅槃経」にある話しです。しかし、「涅槃経」は釈迦一代の聖教ではその生涯の最後に説かれた教えですが、経巻判定という経典の教えの中身の高低浅深を吟味すると、「涅槃経」の前に説かれた「法華経」が最第一であることは、釈迦自身が「法師品」の中で「法華最第一」といい、「無量儀経」で「四十余年未見真実」といっていていることからわかります。釈迦自身の他経には、この「最第一」を名乗らせた経典というのはないのです。
これはどういうことかというと、釈迦の説いた教えはその50年余の生涯に無尽蔵にあるが、「法華経」を説くまでの前の種々の経典は真実を未だ隠していて本当の教えを顕してない仮の教えであるというのが「四十余年未見真実」ということなのです。
その教えの内容の理論的な話しはここではしません。一応そういう理解のうえで、この「涅槃経」に説かれた「貧女の話し」を、(ここが大事なのですが)、「法華経」という立場から解釈した話しをいたします。しかし私の現代語訳が誤っているかもしれないので、それが心配です。
なお、「涅槃経」は「法華経」の後に説かれたので、この経が最後に説かれたのだから順番からすると、一番高い教えではないかとする誤った宗派もある。「涅槃経」は「法華経」の教えて救い漏れた人々を救ったとか、落穂拾いの教なのだと解釈し、これを捃拾(くんじゅう)の教などということもあるのですが、だから「涅槃経」を祈ればよいなどと考えることは危険で、この点は十分に気をつけないとだまされるのです。
「涅槃経菩薩品」で釈尊自身が、「法華経の教えで八千の声聞が成仏の記別を授かった。この事で、釈尊の「四十余年」間の教説では成仏できなかっ声聞(知識人)たちも成仏できたといことは、つまり秋に収穫したものを冬に倉に収納するが如きことだ」といっているわけです。
ここに成仏の因と果からすると、「法華経」に原因があるという点を見失ってはならないということです。「貧女の譬え」でもこの点が非常に大事になってくると思っているのです。
「涅槃経」の「貧女の話し」の譬えを現代文にしてみる。
彼女を家に置いて救護してくれる者もなかった。更に、彼女は病気や飢えに苦しんでいて、乞食をしながら諸国をわたり歩いていた。どこかの宿屋の客人となりそこで一人の子供を懐妊した。この宿屋の主人はこの女性を追い払って立ち去らせた。
子供が生まれてまだ間もない頃に、この一子を携えてよその国に行こうと決めたのであった。その道中で大風や雨にあって寒く苦しい思いをした。アブや蚊や熊蜂などの毒虫に吸い刺されたりした。
ある所で大きな河に出会った。その大河を一子を抱かえて渡った。河の流れは速かったが、子供を放って捨てるということをしなかった。ついに、この河に母と子は溺れて没してしまった。
このような女性が子を捨てなかったという子への慈念の功徳によって、死後に梵天に生まれた。(・・・) 女性は天の解脱を求めてはいなかったのだけれども、自然に解脱に至ったということである。(・・・)
ここでの「貧女の話し」の譬えで、「貧女」というのは財の無い者のことである。だけれども、「女」というのは慈しむ心を持った者のことである。「宿」とは娑婆世間のことで、この世のことである。「一子」とは「法華経」の信仰であり、一切衆生を皆成仏させる原因の種のことである。「宿を追放される」とは流罪されたということである。
「お産間もない」とはこの信仰を始めて間もないということである。「悪風」とは酷い雨を降らした原因の「流罪の勅宣」のことである。「蚊虻」とは多くの理解しない無知の人々が罵詈雑言を加え刺してくること。「母子共に水没した」とは、最後まで「法華経」の信仰を止めなかったために、斬首されるのだということです。
「梵天」とは死後の天国のことではなくて、(一応は、人間の生命を十の世界に分けて説明した内の)仏界に生じることをいう。
最後に、「貧女」がいろいろと大変ないやな人生を経ながらも何故に、望んでもいなかった仏界に自然に至る事ができたのかということだが、これは一子を、どんなに苦しくても誰も助けてくれなくても嘆くこともなく、子への慈念を捨てなかったからで、そこに人間の生命を他の物と比較相対して決める尊厳などではないものがある。あれこれの差別もなく比較もない絶対無二に信ずる心によって、「貧女」の成仏が説かれる。ここには比較不可能な絶対的な人間尊厳を現わしている。
ここの捕らえ方がキリスト教や神道などでは、絶対神を自分の外に超越的に立てるために、人間の尊厳性はいつでも常に相対的に蔑視されて、天秤(バランス)で測られる側の対象物に過ぎないのである。そしてその天秤は、支点や測りの分銅を変えることで、いくらでも人間の価値を上げたり下げたりして天国だ地獄だと言って人々を呪縛するのである。
この「貧女の譬え」を話されている日蓮大聖人の書「開目抄 下」の中ではさらに、「法華経」以外の他の経典にはこの一念三千の玉である一子がいないのだとしている。「法華経」を批判する有る人たちは、他の経典にも在る在るというけれども、それは誤魔化しであって、玉に似にせて黄色く色を塗った石ころを与えられて偽ものに騙されているのだと言われている。
ところがこの「法華経」というのは、そのような石ころでさえ、「法華経」を唯一絶対だと、「貧女の一子」のように信じ保てば仏になる原因をつくることができると指摘されているのだといえる。