ポール・ロワイヤル修道院への入り口。 まっすぐ進むとルドンの川に沿ってシュブルーズ の谷に行く。2015/07/24撮影 |
ポール・ロワイヤル修道院はパリの西ベルサイユ宮殿から15キロほどの距離にある。こんな辺鄙ところを訪れる理由はないのだが、光と影の思想に気になる私は、17世紀太陽王ルイ14世の栄華を誇るベルサイユ宮殿の影の部分としてしばしば対比されるジャンセニストの牙城を調べてみようと気になり続けていた。アルノーやパスカル、ラシーヌたち の集まったポール・ロワイヤル修道院のことだ。しかしそれを調べるのにも、そこをまず訪問して自分の感性でそれを見たかったし、昔のことが書いてある文献をあれこれ探し読んで先行研究を漁っても詰まらないのではないかと考えていた。知らないところへの未知の旅こそ、なおさら羅針盤を持たずに案内の本を持たずに放浪者のように迷い込んで見る旅が私はすきだ。新しい発見というのはそうして起こると信じているのである。
雪山童子という仏教修行の子供がある時に鬼から不思議な法門の一部を聞いた。後の残る半偈を聞かんがために、飢えた鬼のほしがる自分の肉を与えて、童子はこの半偈を聞き急いで近くにあった木片や木の葉にそれを記録して、木に登り鬼の前に飛び降りるわけだ。真理の探究には半分はこのような性格があるのかもしれないなどと考えなら帰途についた。
それにしても何故キリスト教が人を殺害したり、異端を作って迫害したりしたのかを問うことこそが、今は宗教者が誰も住まなくなった精神の廃墟のごときポール・ロワイヤル修道院の建物がルイ14世のカトリック主義によって破壊され絶滅された謎を解く鍵になると考えた。
丘の上のポール・ロワイヤル修道院から下に見えるシトー派の12世紀のゴチック教会と廃墟を望む。下へと続く石の階段は108段あった。仏教の煩悩の数を思わせる。左側斜面には葡萄の木が植えられてあった。この地方は今ではワインは生産されてなく知られてないが、ガリアの昔から葡萄は栽培されてきたのである。2015/07/24撮影 配置:
ポール・ロワイヤル・デ・シャンの12世紀の教会。ポール・ロワイヤルに修道女が集まるまえからあった。この時代にコワゼドオジーブというゴチックの生命線的特長である肋骨交差橋梁が出始める。ここはゴチックの第二期のころものだという。
ポール・ロワイヤル・デ・シャンの中に大きなハト小屋があった。これは中世にあっては権力と富の象徴であるからこの修道院のこの土地での支配権が偲ばれる。農民はハト小屋をもてなかったのだ。2015/07/24撮影
ポール・ロワイヤル修道院を果樹園側から。2015/07/24撮影
ポール・ロワイヤル修道院の果樹園側に古井戸があった。馬蹄形の洞穴のような不思議な井戸だ。梨の枝は石の壁に沿って植えられているのは熱を保存する関係で、ベルサイユの王の菜園(ポタジェー)にあるのと同じだしパリの東の有名なバニョレの梨作りの手法とも同じである。2015/07/24撮影
ポール・ロワイヤル修道院の敷地にはあちこちに古い建物の建材が転がっている。石は貴重で多くの場合はこれを新たな建築物に再利用するのが一般的なので壁や塀にはめ込まれていたりして古い石がそこで顔をのぞかせている。2015/07/24撮影
ポール・ロワイヤル修道院の裏の農家の入り口に放り出したように転がっている石の塊だが、よく見ると古くから建材として利用されてきた煉瓦だが、その破片が混入されているのが分かる。当時使用された建築が破壊された後に保存のためにこうして残したのかどうかは私には分からない。2015/07/24撮影
ポール・ロワイヤル修道院を2時間近く訪問して、岐路に着こうとして正門の方に戻るころには夕暮れ時が迫って小雨がちらついた。遠くまで広がる麦畑と実をつけ始めたリンゴの木シルエットが印象的で、私は訪問客の誰一人ない敷地内をさ迷いながら、17世紀のキリスト教カトリックの迫害の一つにこのポール・ロワイヤル修道院の人たちの信仰ジャンセニズムがあり、また13世紀南仏カタリ派へのアルビジョワ十字軍があったことを考えていた。当時のローマ教皇の圧力でルイ14世がこのカトリックの異端ジャンセニズムの集会所を破壊したことは。カトリックの教義が排他主義的な性格を持つもので教義がそこから出来上がっているのではないかと、つまり神と悪魔の仕分けを必要以上にしたがる人たちなのだと思えるのだ。こうして私のポール・ロワイヤル修道院訪問が始まった。